Eli Keszler / Stadium

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淡いアナログ・シンセやエレピと高速ドラミングにコントラバス等の音色の組み合わせがAtom HeartとBurnt FriedmanによるFlangerを思い起こさせる。
深遠で静謐なムードはWechsel Garlandを、特定のエモーションを忌避するようなメロディは竹村延和と言うよりChildiscの諸作、特に奔放なパーカッションがかのRei Harakamiをして天才と呼ばれた(はずの)SuppaMicroPamshoppを彷彿とさせ、それらを敢えて乱暴に一括りにするならば要するにエレクトロニカ時代のジャズ解釈という事になるだろう。
そのようなサウンドを志向するEli Keszlerが現代のエレクトロニカ・リヴァイバルとリンクする事はごく自然な成り行きで、Oneohtrix Point NeverやLaurel Haloとの関わりもすんなり腑に落ちる。
(尤もOPNのサウンドエレクトロニカとの繋がりを感じた事は唯の一度も無いが。)

やはりジャズを援用したLaurel Halo「Dust」がそうだったように比較的一定の明確なリズムが多いにも関わらず構造や展開は一貫してアブストラクトで、曲という単位を認識する事が困難で、何度聴いてもリズムやメロディが明確な形(フレーズと言い替えても良い)を持って記憶に定着する事はなく、ムード/印象の余韻のようなものだけが頭にこびり付く。
無調という訳ではないし、殊更不協和音で充満しているという事もないが、リズムやメロディの基礎となる反復は無く、旋律として認識出来る要素、或いはそれと認識出来る瞬間が欠如しているという意味でやはりAutechre「Anti EP」に端を発するエレクトロニカのコンセプトを想起させ、音量の小ささはロウワーケース・サウンドを連想させたりもする。
厳密にはどのエレメントもフレーズを繰り返しているという意味で確かに反復してはいるが、各々のタイムラインが全く異なる為に如何なるアンサンブルやシンコペーションも生じておらず、それぞれが等価に且つ無関係に鳴っているが故に、完全に中心が掛けて空洞化していると言った方が正しいだろうか。


M1の押し寄せる波やM7の雨の滴る音のようなフィールド・レコーディングは如何にもという感じだが、M3はどう聴いても日本のアイドル・ソングらしきBGMが背景になっており、インテリジェンス迸る中にも奇妙なユーモアを忍ばせている。
主役であるパーカッションの音色にも多様性があり、M5等のようにエキサイティングなドラミングや物音をカットアップ/エディットしたと思しきビートの一方でM8ではオールド・スクールなドラムマシンのタムのような音も聴こえたりして意外性もある。

アカデミックなムードは確かにあるが、殊更これ見よがしなアヴァンギャルド臭は無く、誤解を恐れず極端に言えばカフェ・ミュージックとしても通用しそうな耳に心地良いポップさがある。
ポップ・ミュージックとして成立しそうにない音の集積が噛み合う事のないまま何故か極めて豊潤な音楽的な何かを醸成する様は、丁度Sun Arawの音楽が全く音楽的に響かない事と対を成すようでもあり、派手さは無いがこれまた音楽のマジックの一つの形ではあるだろう。

Vampire Weekend / Father Of The Bride

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ポリティカルなバンドが能天気な程に明るく驚く程高性能ポップに振り切れた。
M2の跳ねたピアノやパーカッション、M15やM16に於ける女声ヴォーカルとのデュエットは、有ろう事かディズニー映画の劇中歌に使われても良さそうで、商業的なプロフェッショナリズムを感じさせインディ臭さは微塵も無い。

M4等の何処かThe Policeっぽい曲調はBeck「Colors」と同質の感覚を惹起するし、M6は少しRivers Cuomoがポピュリズムに走ってからのWeezerを彷彿とさせる。
確かにアルバム全体もWeezerが外部のコンポーザーを迎えた「Hurley」に近い感覚があるかも知れない。
(勿論Vampire Weekendのアレンジの方がより入念で洗練されているしあれ程大味ではないが。)

特にアップリフティングな前半は毒気の全く無いポップだが、だからと言って意外と嫌悪感は無く、寧ろストレートでフックに富んだソングライティング自体はメディアから絶賛された前作よりも好きかも知れない。
解り易くこれ見よがしなエクスペリメンタリズムは皆無だが、随所に聴かれるオートチューン使いやストレンジなエフェクトは、決して単なるセルアウトではないというEzra Koenigの矜恃を聴くようでもある。

今一番エキサイティングな音楽の冒険はインディではなくポップ・フィールドにあり、インディに籠っている場合ではないのだというEzra Koenigの明快な意思表示が伝わってくるような作品で、それは勿論Dirty Projectorsと共振する現状認識であろう。
彼等の大胆なインディへの裏切りの媒介になったのがやはりSolangeとの交流なのだとしたら、10年代後半に於いて彼女の音楽的好奇心が齎したものは相当大きかったと言えるだろう。
尤もSolange本人は既に違う景色を見ているような気もするが。

Weyes Blood / Titanic Rising

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元Jackie-O Motherfuckerのベーシストという肩書が俄かには信じ難い程ポップ。
そのKaren Carpenterを彷彿とさせる歌声を一種のジョークと捉えればAriel Pinkと繋がるのも解らなくはないが、殊更ローファイさを売りにするような身振りはまるで無く、少なくとも表面的には諧謔性は見当たらない。

確かにM1の間奏に於ける、背景の空間が歪曲するようなノイズや、M2冒頭の奇妙に畝るシンセ音等からは、朧げに甘ったるいだけの単なるポップスではない事は伝わってくるが、それらのギミックは決して曲全体を異物感で支配するような類のものではない。
殊更にエクスペリメンタルである事を強調するでもなく、シンプルに歌と向き合う姿に好感が持てる。

その豪奢なポップネスはJulia Holterが近作で捨象したものを継承するようでもあり、確かに敢えて乱暴な括り方をするならば、アンビエント/ドローンとチェンバー・ポップの融合という意味でJulia Holterフォロワーという感覚も無くはないが、だとしても極めて優秀なエピゴーネンに違いなく非の打ち所は無い。

純粋にポップスとしての完成度が高く、ポップスの部分がしっかりしていればチェンバー・ポップも捨てたものではないと思わせる強度がある。
特にメジャーとマイナー、ネガとポジ、平凡と非凡とが入り混じったようなメロディ・センスからは微かにBurt Bacharachを彷彿とさせる瞬間があり、久々にソングライティングそのものの力を感じさせる作品である。

Little Simz / Grey Area

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ブーストで歪んだベースに仄かにダビーで渇いたスネア、エキセントリックなストリングスに、最高にクールでありながらアグレッシブなラップが躍動するM1が先ずは白眉。
続くM2の密室的で埃っぽい音像もやはりドープで、後半に挿入される上昇するシンセも面白い。
ややローファイで掠れた音の質感はBeastie Boys「Check Your Head」を何処となく想起とさせる。

M3は一転してオーセンティックなネオソウル風で、リニアなビートに何処となくUKらしさを感じる。
Little DragonのヴォーカルをフィーチャーしたM7等も同じUK産フィメール・ラッパーであるSpeech Debelleを想起させる。
他にはフラメンコ・ギターがサウダージたっぷりのM4や、大仰なストリングスがサイコスリラー風を醸し出すM5、YMOっぽいエキゾチックな旋律のエレクトロのM6とスタイルはかなり幅広く、それぞれプロデューサーが違うのかと思ったら同じInfloという人で、その引き出しの多さ(節操の無さ?)は興味深い。

どのトラックも最近のシンセで空間を埋め尽くす傾向のものとは異なり、音数は少なくスペースが多い。
そこに配置されるディティールの音のチョイスも非常にユニークで、これまたUKらしいダブの影響も感じる。
裏拍を強調したファスト・ラップはグライムのバックグラウンドを感じさせるもので、グライムがアメリカで市民権を得た現在に於いても決してUSからは生まれなかったであろうと思わされるものがある。

巧みでしかし口角泡を飛ばす感じではなく、あくまでスムースなラップは極めて快楽指数が高く、Kendrick Lamarが絶賛したというのも頷ける。 
フロウのヴァリエーションも豊かで単調さをまるで感じさせないという点で、グライムを基盤にしたUKヒップホップのネクストを感じさせる作品である。

Anderson .Paak / Oxnard

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ブラックスプロイテーション映画風のオープニングの、スムースでありながら滾る熱を内に秘めたようなクールなラップが早速気分を高揚させる。
(ジャケットと言いトラック間のスキットと言い、ブラックスプロイテーションを模した造りは本作のコンセプトの一つであるようだ。)

期待通り「Malibu」の不完全燃焼を払拭するように、類い稀なラップを堪能出来る内容になっているのはエグゼクティブ・プロデューサーを務めたDr. Dreの指示だろうか。
真偽はさて置きM4やM8等のDr. Dreらしいナスティで硬質なエレクトロ・ファンクに乗せたラップの快楽指数はやはり高い。

一方でSchoolboy Qに替わってBlack Hippyクルーから今度はKendrick LamarをフィーチャーしたM3は、まるで「Am I Wrong」のリメイクのようなブギー・ファンクで「Malibu」のファンへのサービスも抜かりない。
(コーラス部分の高揚感を煽るシンセベースはOm'Mas Keithの仕事だろうか?)
自分のような「Compton」派と「Malibu」派の両方にバランス良くアピールする内容で、Dr. Dreの流石のビジネス感覚が発揮されている。

「Malibu」では60’sのソウルが基盤の一つであったのに対して、本作の例えばM2やM5等のメロウでソフィスティケートされたファンクからは70’s臭が漂う。
M7の前半のようなスロウ・ナンバーは、Sam CookeよりもStevie Wonderと言う方がしっくり来る。
M14はカリブ海の香りがするダンスホール風で、オーセンティックなソウル路線も良いがAnderson.Paakの高い声にはこういった猥雑な感じも良く似合う。
確かに「Malibu」ほどの目立ったフックとなる曲は無いが、相変わらず佳曲は多く期待に違わぬ充実作ではある。

Jeff Tweedy / Warm

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アコースティック・ギターを基軸としてそこにドラムやベースが自己主張する事なく淡々と寄り添う。 
強いて挙げるとすればスライドギターの音が特徴的で、慎ましやかだが僅かに彩りを付け加えている。
スライドギターで思い出すのは坂本慎太郎「ナマで踊ろう」で、本作と同じように毒気が無いが、坂本慎太郎の場合は毒気が無いのが逆に猛烈な毒気になっていたのに対して、こちらは至って朗らかで諧謔は無い。

立体感のあるミキシングはWilcoと同様だが、構成も展開もWilcoより遥かにシンプル。
ハットとスネアに掛けられたエコーがクリック・ノイズのような効果を生んでいるM4、淡いエレクトロニクスや細やかな残響処理が仄かにけれども深遠なアンビエンスを生成するM6やM11等、音響面でJeff Tweedyらしさが垣間見えたりはするけれども、そのどれもが至って慎ましく、余程注意深く聴かない限りそれらのギミックが意識に上る事はない。

結局最もWilcoのJeff Tweedyを感じさせるのはディストーションの効いたベースがラウドに唸りをあげるM9だったりして、その他ではオルタナ・カントリーもしくフォークの「オルタナ」の部分は奥深く隠れて、表層には殆ど上ってこない。
終始緊張感が漲る事もなく、ラフでリラックスした雰囲気で、Wilcoには出来ない事を試行しようといった野心も感じられず、バンド活動の合間にミニマルな構成で録音したものをリリースしてみたといった感じだろうか。

その気軽さがまたソロの醍醐味ではあるだろうし、最終曲にGlenn Kotcheが参加している以外は、息子がドラムを叩いているのもまた微笑ましくもあるが、引っ掛かりに欠けるのも確かで、2018年はNine Inch Nailsと言いStephen Malkmusと言い、オルタナの矜恃を感じる作品が印象に残っただけに、若干物足りなさは否めない。

Kids See Ghosts / Kids See Ghosts

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2018年のKanye West関連作 - Pusha T「Daytona」と自身の「Ye」そして本作 - はどれも収録時間が30分未満とごく短く、Kanye Westが何らかのコンセプトの下でそのようなアルバムを連発している事は疑いようがない。
全て7曲で3作合わせて漸くCD1枚分という事実を考えると、合わせて1つの作品として完成するのではといった妄想を掻き立てられもするが、サンプル・ベースのプロダクションに回帰して高評価を得た「Daytona」とは対照的に、本作の佇まいはDanny Brown並みとまでは言わないものの、何処かよりオルタナ・ヒップホップ然としている。

ステイタスを確立した2人のソロ・ラッパーのコラボレーションの割にラップは実に散発的で、作品にとっての必要不可欠な要素という感じすらしない。
何よりヴァースとコーラスの区別は最早崩壊しており、Kanye Westに関して今更ではあるが、反復を基調としたヒップホップのフォーミュラを完全に逸脱している。

決してビートが弱い訳ではないが、M1における打撃音の連打や鼓笛隊のマーチのようなM2、M6のウッドブロックやタム使い等、典型的なヒップホップのビートからは何処か乖離した印象を受ける。
M3-4は比較的普通のヒップホップのビートの範疇だが、それにしても間断が多く途切れ途切れで、Pusha T「Daytona」同様に当然トラップの要素はほぼ見当たらない。
浮遊感のあるサウンドクラウドラップ的にも感じられるが、印象はチルと言うよりダウナーで、如何にもメンタルヘルス問題で繋がった(かどうかは知らないが)2人らしい。

M7ではKurt Cobainが伝記映画の中で爪弾いたものというアコースティック・ギターがループされており、2人が鬱についてラップしているというのもしっくり来る
(Kid Cudiがそれでも「希望を感じられるアルバム」だと評していて、確かに絶望的な感じはないものの今一つピンとは来ない)。
Earl Sweatshirt然り、デプレッションが昨今のアメリカン・ヒップホップのリリック上の重要なテーマの一つになっているのは間違いなく、要するにそれがエモラップ(しかし名前が悪い)の流れという事なのだろう。