Laurel Halo / Dust

音色自体の新奇さは薄れ、比較的オールドスクールなシンセの音色とヴォーカルの復活も手伝って、YMO「BGM」辺りに通じるテクノ・ポップ感があるが、そのアブストラクトな構造やファジーな展開はポップと呼ぶには些かエクスペリメンタル過剰で、テクノからの直截的な影響を感じさせるストラクティヴで緻密なリズムと
多様な音響がアクセントとなっていた「Chance Of Rain」とは、ある意味で対照的なアプローチが取られている。

ビートとヴォーカル、若しくはシンセフレーズの非同期性に起因する、拍が思うように取れないオブスキュアなリズムはActress「AZD」にも通じるが、それが解り易いズレではなく、本来合うはずの焦点が理由も解らず合わないような(喩えるならば片一方のコンタクトレンズを外して歩いているかのような)感覚があり、Actressの場合よりも余計に居心地が悪い。
寧ろ悉くクリシェを外す事で、明確な歌やビートの存在にも関わらず一向に音楽が像を結ばない感じはSun Arawに似ている(特にM10とM11のダブ)。

アフリカン・パーカッションの多用は本作の特徴の一つだが、殆ど唯一ダンス・ミュージック的な整合性を保ったフレンドリーなトライバル・ビートに珍妙な日本語ヴォーカルが乗るM5は、Fela Kutiの影響を受けた坂本龍一「Riot In Lagos」を彷彿とさせるという意味で、前作のデトロイト・テクノに対してオールドスクール・エレクトロ的だと言える。
一方で同じくパーカッシヴなトラックでも、M3のアブストラクトなパーカッションやゴングの音色と電子ノイズのアンサンブルに変調された声が被さる様はまるでAsa-Chang & 巡礼のようで、要するにそこにスタイル的な一貫性は無い。
M4やM7、M8等でのインプロヴィゼーション的なサクソフォンカットアップされた生ドラムからは、「In Situ」で聴かれたジャズからの影響をより深化・発展させフリージャズに接近する様子が伺えるが、本作の抽象性はモードを含むフリージャズの理論や手法をスタイル横断的に適用した結果なのかも知れない。

「Chance Of Rain」於ける音響とリズムの実験には未だエレクトロニカの2010年代版のアップデートといった趣きがあったが、本作には少なくともテクノ/ハウス以降のポップ・フィールドのエレクトロニック・ミュージックに於いて誰も試みた事の無いやり方や発想が注ぎ込まれている。
ある種のミュージック・コンクレート的な側面からはOPNやArcaと並んで聴かれるべき作品だと言えるが、その独創性・実験性に於いてはその両者をも凌駕しており真にオルタナティヴな前人未到のエクスペリメンタル・ミュージックと呼ぶに相応しい。