Klein / Harmattan

どんな経緯があったのかは知らないが、Hyperdubからではなくクラシック専門のレーベルからのリリース。
とは言え中身はエクスペリメンタルなエレクトロニック・ミュージックなのでしょう、と幾分舐めて掛かったところ、M1はタイトル通りの純然たるピアノ曲で些か驚かされた。
とは言え勿論クラシックのピアノ・ソロと聞いて想像する類の音楽ではまるでなく、基本的に滅茶苦茶に弾いているようにしか聴こえず、FluxusとかJohn Cageといった名前が連想される。

或いは竹村延和のChildiscのカタログにあっても違和感は無さそうな音楽で、後半の極短い時間で僅かに電子音が登場すると途端にミニマル・ミュージック的な整合性が立ち現れる。
単なるアマチュアリズムによる新奇性を狙った音楽には思えず、やはり元々何らかのアカデミックな素養がある人なのだろうか。

M2ではトランペットやサックスが登場するが、チェンバー・ミュージックと言うよりフリー・ジャズのような趣で、ジャズとエレクトロニクスの混淆によるエクスペリメンタル・ミュージックという点で「In Situ」以降のLaurel Haloに通じる感覚がある。
M5やM11はアンビエントと呼んでも差支えなく、特にオルガン・ドローン的なM11は収録曲中で唯一(あくまで比較的という話だが)メロディアスと言って良いが、やはり微妙な不協和音が妙に胸を騒つかせ単純にチルアウトはさせてくれない。

Laurel Haloと同様に作り手が女性である事を一切意識させない音楽であると同時に、ブラックネスもまるで感じさせない点でActressやDean Bluntの系譜に連なる音楽家であるようにも思える。
2010年代前半から中盤に掛けての、それら旧来の因習的な女性性や黒人性の枠組を無効化するかのようなアーティストの立て続けの登場には相当な衝撃があった。
しかし今Kleinをそのような見地から評価する事が、正直に言ってどうにもナンセンスに思えて仕方が無いのは、この10年で言わばそのような旧態依然とした枠組の崩壊が半ば自明になった事の証左であるようにも思える。
それは音楽的な進化や進歩に乏しいように感じられたこの10年間のポップ・ミュージックに於ける、最もポジティヴな変化の一つだと言って良いだろう。