原 雅明 / 音楽から解き放たれるために -21世紀のサウンド・リサイクル



00年代中旬からの数年間、全く新しい音楽を聴かない時期があった。
あくまでも状況的な要因での成り行きだったが
断片的に耳に入る「新しい」とされる音楽に
全く食指が動かなかったのも事実だった。
それ以前の数年間でエレクトロニカやポストロックに慣れた耳には
それら新しい音楽はむしろ古典的で刺激に乏しく感じられ
有り体に言えば、聴きどころが解らなかった。


エレクトロニカとポストロックは、00年代が終わった現時点においても尚
テクノロジーの発達によって齎される音楽の進化の最後の形である。
コンピュータの高スペック化とDTMソフトの普及は
部屋に居ながらにして、それ以前の時代の数分の一の時間で
数倍複雑なトラックを創る事を可能とした。
波形編集により理論上どのような音でも作成可能となった事は
テクノロジーによる音楽の進化の究極の形と言えるだろう。


その後それなりには、新しい音楽に面白味を見出せるようにはなったが
その克服の過程で、音楽に対する個人的な価値観は訂正を余儀なくされた。
ポストロックとエレクトロニカの終焉=原雅明の言うところの「敗北」はまた
自分にとって進歩史観的な音楽の聴き方の終焉をも意味していた。


その後の音楽を振り返ると、エクレクティックというキーワードが思い浮ぶ。
ディスコパンクやディスコダブ、ダブステップ
ジャンルとジャンルを掛け合わせたようなジャンル名が多く登場したし
ディスコダブやフィジェットハウスにとって
折衷主義はアイデンティティの一部と言っても過言ではないだろうと思う。


これらの折衷主義は、原雅明の言う「リサイクル」に該当するのだろうか。
「進化」から「リサイクル」へのパラダイムシフトの一傾向と捉える事は容易いが
一方でポップミュージックとは
いつの時代もエクレクティックだったという気もする。


あるいはDiploによるバイリファンキのフックアップ以降の流れも
アーカイブは「過去」ではなく「周縁」からピックアップする動向だと
理解する事も出来るかも知れないが…。


本書で扱われる作品の中から
そのパラダイムシフトを象徴するアルバムを一枚を挙げるとすれば
それはやはりJ-Dillaの「Donuts」を置いて他に無いだろう。
そこでの短いビートは最早作品として構築された「音楽」と呼ぶよりも
より断片的な「リサイクル」の素材=「サウンド」として
理解する方がしっくりくる。


サウンド」の創出とその「リサイクル」という循環
それが21世紀における音楽の有り方なのだとしたら
その循環の中に果たして創出と関りの無い聴取や
あるいは言葉が介在する余地はあるのだろうか。


今はただ、よりドラスティックな変化を前に恐々とするばかり…。