Anderson .Paak / Ventura

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Dr. Dreの関与のせいかエレクトロ/ファンク色が強かった「Oxnard」から一転して、生演奏主体のメロウなソウル路線への揺り戻しを感じさせる。
M2等は「Malibu」後半のスウィート・ソウルを思い起こさせるが、よりスムースでストリングスの多用がフィリー・ソウル的な印象を齎している。

シンセ・ベースがファンキーなM7はお得意のブギー・ファンク路線だが、「Am I Wrong」に較べるとフュージョン感が強くレイドバックしており、ホイッスルも入って何処かバレアリックな雰囲気もあるし、M9等で聴かれる4つ打ちのキックはハウシーと言っても良いくらいの洗練を感じさせる。
ローズ・ピアノの音色がジャジー・ヒップホップ的な質感を醸し出すM4のラップは相変わらず 快楽指数が高いが、M1に於けるAndre 3000のラップも負けず劣らずで、と言うかこれだけラップが少ないと逆に渇望感が満たさせるようでもあり、まさか意図的ではないと思うが、戦略して有効かも知れない。

「Malibu」を聴いた際に、そのラップの少なさに、「James Blake」が「CMYK」で昂った期待を裏切ったのと同じような天邪鬼的アプローチを想像したものだが、流石にそろそろAnderson .Paakが自らをラッパーして認識していないであろうという事は解ってきた。
そのヒップホップとの距離感というのはラスト・トラックにフィーチャーされたNate Doggのような感じなのかも知れない。

ともかく「Malibu」から数えて早3作目、流石に期待値が下がってきたというのもあるだろうが、どれだけラップが入ってなかろうと、佳曲は多くそれなりに満足感はある。
正直に言えば若干のマンネリ感は否めないけれども、これだけコンスタントに充実作を繰り出せるというのは凄い事だとも思う。

Yaeji / What We Drew

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有機的に伸縮するシンセとオールドスクール・エレクトロのような抜けの良いドラムマシンのビートの組み合わせは、何処か懐かしいSuzukiskiを思い出させる。
グリッチホップ的なM5、坂本龍一「Riot In Lagos」みたいなM8、ブレイクコア一歩手前のジャングルM9と、音色には統一感がありつつもビートはヴァリエーションに富んでいる。

ベースには然程主張が強くある訳ではないものの、空間が多くシンプルでバウンシーなビートの快楽の質は初期グライムやダブステップに通じる。
勿論リズム・パターン云々の話ではなく、最低限の機材(或いはYaejiの場合はもしかするとGarageBandかも知れない)と荒削りなテクニックのみで作られたような、要するにプリミティヴティがあって、XLが目を付けたのも頷ける。

殊更にオリエンタリズムを惹起する訳ではないが、呪文のようなハングルの響きも心地良い。
欧米での評価と言語が全くの無関係とも思えず、響きは全く違えどCornelius等に於ける日本語需要も同じような感じだったのかも知れないと想像させる(そう言えばM4のヴォイスは嶺川貴子に良く似ている)。
M7に登場する日本語ラップのフロウは如何にもJラップ的(娘はEテレで良く観るDJみそしるとMCごはんだと勘違いしていた)だが、英語ラップとのマイクリレーからはポスト・インターネット時代の軽快なフットワークが感じられる。

殆どが単音のシンセとサブベース、オールドスクールなドラムマシン、そしてヴォイスで構成されており、ミックステープと敢えて呼ぶのも納得が行く簡素な作りだが、声も上物もリズム・パートの一部としてポップなビートを作る才能は確実で、聴き応えは充分にある。
ミックステープ故の力の抜け具合が奏功しているようにも思え、真価が問われるフルレングスが待ち遠しい。

Thundercat / It Is What It Is

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Kamasi Washingtonのテナー・サックスが存在感を放つ、Thundercatにしては珍しくスピリチュアル・ジャズを感じさせるM2、Miguel Atwood-Fergusonによるものと思しき勇壮なストリングスとLouis Coleのエレピを引き連れて超絶技巧のドラミング(ブレイクのキックで僅かに綻びが聴けるのが逆に良い)が16ビートで疾走するM3等、アルバム前半は「Drunk」同様にヴァラエティ富み時にアップリフティングで、表面的なサウンドMac Millerの死の影響は余り感じられない。

Steve Lacyのギターとヴォーカルが「Apollo XXI」そのままのM4は、ThundercatがSteve Lacyにとっての重要なメンターの一人である事を実感させ、2010年代のAOR/ヨット・ロックの復興にThundercatが果たした役割の大きさを再認識させられる。
上昇するベースのアルペジオがエキサイティングなM6はドラムンベース・ミーツ・フュージョンといった趣きでSquarepusherに通じるところもある。

M1のイントロと対を成すようなインタールードのM10を境に「The Beyond / Where The Giants Roam」にも通じる何処か靄が掛かったかのような幻想的で幽玄な音像に移り変わる後半は、多くの友人達との共同作業で作り上げられた前半とは対照的で、憂い帯びた内省的で何処か沈鬱な曲調からは、絶望感やナルシズムとは違った親友を失ったリアルな喪失感・空虚感が伝わってくる。

ある種のアンチ・クライマックスな展開に、茫然としている間に気が付くとアルバムが終わっている印象で、正直言うと後半のモードだけでアルバム1枚は流石に辛かっただろうという気がする。
自然な成り行きなのだろうとは思うものの、下手に異なるムードの曲をシャッフルせず、敢えて前後半でがらりとムードを変えた点が功を奏しているようにも思え、その優れたバランス感覚には関心させられる。

The Weeknd / After Hours

 

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シングルとして全世界でヒットしたM9はまるでA-Ha「Take On Me」のようで、実にいなたいけれども闇雲な突破力がある。
メロディはキャッチーを通り越してチージーで、もはやオルタナR&Bどこ吹く風の正真正銘のポップスだがその強度は否定し難い。
M10はScritti Polittiみたいだし、M11も聴きようによってはThe Policeのようで、その80’s臭からはJanelle Monáe「Dirty Computer」が思い浮かんだりもする(とは言えPrince由来の猥雑さはここには全く無いが)。

2ステップ風のビートを採用したM2は少しJokerを彷彿とさせ、M5のハイハットはトラップと言うよりは寧ろ廉価版のJames Blakeといった感じ。
M3ではドリルンベースと言うか、明け透けな「Richard D. James Album」のビートの盗用とティーン・ポップが融合し、M13は歌さえ無ければThe Fields辺りのミニマル・テクノ風でもある。
短絡的過ぎて誰もやらなかっただけという気もしなくはないが、確かにエレクトロニック・ミュージックの造詣はそれなりにあるのだろう。

ただそれにしてもウォブリーな音像やオートチューンの多用を含めて10年前を基準したオルタナティブといった感じは否めず、ここに未来があるとは微塵も思わない。
趣味の悪いジャケットも、鬱陶しいファルセットの声質も、M4のようなナルシスティックで退屈なメロディも積極的に好きではない。
幾らポップスだと割り切ってもCharli XCXのようには面白がれない要素も多分にある。

加えてチープなスピーカーで聴く分には未だ気にならないが、ヘッドフォン聴くとシンセのレイヤーが過剰でミキシングもカオティックで、まるでArcaを聴くのと同類のストレスフルな感覚がある。
勿論それ自体は実験性の発露と取れなくもないが、それが件のメロディや歌と合わさると若干気が狂いそうになる程堪え難い。

Dan Deacon / Mystic Familiar

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冒頭のLCD Soundsystem「All My Friends」を想起させる素朴な音色のピアノ連打こそ予想外だったが、続いて高速アルペジエイターと大仰なオーケストレーションが入ってくると、やはり一気にAnimal Collective「Feels」「Merriweather Post Pavilion」に通じるユーフォリアが充満する。
中でも特にヴォーカルのリヴァーブが強めのM9は、まるでAnimal Collectiveのどれかのアルバムに収録されていたかのような強烈な既視感を齎す。

M3等の躁的で忙しないハイエナジーなビートや、M5のコズミッシェと同時に昔のファミコンゲーム音楽一揆とか)を思い出させるところもあるエキゾチックなメロディのチープなシンセ等、音像は総じてよりエレクトロニックで、Animal Collectiveの作品で挙げるとすれば「Centipede Hz」が最も近いだろうか。

M11のフリー・インプロヴィゼーション風のギターは山本精一「Crown Of Fuzzy Groove」を思い起こさせるし、オプティミスティックなメロディにはThe Flaming Lipsを連想させるところもあるが、何れにせよ大雑把に言えば、Boredoms「Super Are」と「The Soft Bulletin」以降のモダン(と言っても20年以上前だが)・サイケデリアという点に於いては然程の意外性は無い。

ヴォーカルは時折Avey Tareを彷彿とさせると同時に、Wayne CoyneやJ Mascisのような、より酔いどれた人間味を感じさせる瞬間も多く、一時期のAnimal Collectiveが強烈に醸し出していた超自然的なイメージと較べると、メロディにも少し俗っぽさがあり、それが逆に単なるAnimal Collectiveエピゴーネンでは終わらないDan Deaconの魅力だとは思う。

Mac Miller / Circles

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バックトラックはほぼギターとヴィブラフォンのみのM1に始まり、クラウド・ラップ等という表現では生温い、フォーキーと言って差し支えない程のある種の境地に達したかのような穏やかさがアルバム全体を通底している。
M2ではレトロなシンセがGファンクを連想させたり、M5のビートは少しトラップ風だったりもするが、テクスチャーはあくまで柔らかく、SolangeアンビエントR&Bに通じる感覚もあるし、ホーンと女性コーラスが彩るラストに至ってはネオ・ソウルという言葉を想起せずにはいられない。

全編に渡りMac MillerはAnderson .Paak並みにラップしていないが、年季の入ったブルーズ・シンガーのような倦怠感と憂いを帯びた歌声は実に魅力的だ。
その歌声を前面に押し出す意図があるのだろう、ヴォーカルのボリューム・レベルは極端に大きく、その成果か独白のように生々しく切実さを持って響く。

本人の死後にプロデューサーが仕上げたというから多少なりともセンチメンタルなバイアスは掛かっているのだろうと思われる。
本人の趣味嗜好がポスト・プロダクションに反映されていたら、また印象の違った作品になっていたかも知れないとも思う。

どれくらいの割合が生前にレコーディングされていたのかは見当も付かないが、音数の少ない簡素な作りから想像するに、大幅にマテリアルが追加されているといった事はなさそうで、その制約が何処か朴訥としたムードの醸出に寄与しているのではないだろうか。
生前はセールスに評価が追い付いていないイメージがあっただけに、もしMac Millerが生きて本作がリリースされていたとしても、同様に称賛されていたと信じたい。

Gil Scott-Heron / We're New Again A Reimagining By Makaya McCraven

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ヒップホップの影響著しいジャズ・ドラマーによるリコンストラクトだけあって、M3やM18等のループ感のある8ビートは確かにブーンバップ的だ。
M13でもテクニカルでマシニックなハイハットがリズムにアクセントを生み出しているが、Chris Dave以降ではヒップホップの影響を感じさせないジャズ・ドラマーの方が珍しいとも言え然程インパクトがある訳ではない。

Carlos Ninoともコネクションがある人らしく、確かにM1の幽玄なリバース・ディレイに始まって、ハープとヴィブラフォンとユニゾンスピリチュアル・ジャズ風のM2に繋がる流れはBuild An Ark直系と言って良い。
M5のパーカッシヴでポリリズミックなラテン・ジャズはKamasi Washingtonにも通じ、要するに2000年代以降の(それこそヒップホップを通過した)ジャズの潮流から大きく逸脱するものではまるでない。

オーセンティックな印象が強いとは言えKamasi Washingtonの場合とは違い、各楽器のソロ/アドリブが前面に出てくる場面は一切無く、あくまで演奏は主役であるGil Scott-Heronの歌唱/スポークン・ワードの背景に徹していて故人に対する深い敬意を感じさせる。
特にM11とM13に於けるシンプルだが叙情的なピアノのコード/リフレインと、Gil Scott-Heronの嗄れた含蓄に富む歌声が織り成すリリシズムが素晴らしい。

正直Gil Scott-Heronの威光を抜きしても残る特別な何かが強く感じられる作品とまでは言えず、Makaya McCraven個人の資質やオリジナリティが何処にあるのかは、本作を聴く限りでは良く判らない。
企画物故に仕方無い部分も多分にあるだろうと思うので、次は是非 Makaya McCraven本人のリーダー作を聴いてみたい。