Earl Sweatshirt / Sick!

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やる気こそ感じられないがしっかりとリズムに対するフロウがあり、「Some Rap Songs」に較べると余程ちゃんとラップしていると言える。
トラックにはやはりこれと言ったフックは無く相変わらずデプレッシヴで空疎ではあるが、前作にあったような極端にアブストラクトなものは少ない。

Madlibに通じるようなクラックル・ノイズ塗れのサンプリング・ループ・ベースのプロダクションや珍妙なSE、ダビーなエフェクトは健在だが、何時になくビートは明瞭で破綻無く安定している。
得も言われぬフリークネスや異物感は薄まった印象で、「I Don't Like Shit, I Don't Go Outside」以降で最の普通のヒップホップ/ラップ・アルバムに聴こえる。

前作と違うのはEarl Sweatshirt自身の手によるトラックがほぼ無い点で、代わりに3曲をThe Alchemistが手掛けているのが比較的オーソドックスな印象に拍車を掛けているのかも知れない。
確かにFreddie Gibbs & The Alchemist「Alfredo」にも近い燻銀的な、少し悪い言い方をすれば地味な印象で、決して悪くはないが期待値が高かっただけに少し物足りない。

収録時間も前作同様に短く(24分しかない)、然した引っ掛かりも無いままに何時の間にか終わっている印象で、肩透かしを喰らった感は否めない。
確かに「Some Rap Songs」よりもずっと聴き易くはあるが、異端児であり革命児でもあるEarl Sweatshirtにそんな事は期待していないのだ。

Madlib / Sound Ancestors

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Madlibの作品の中でも確実に指折りのキャッチーさで、フリーキーさは減退し洗練が際立った印象がある。
その洗練は間違い無くKieran Hebdenにより齎されたもので、特にM4やM6(Young Marble Giants!)といった、これまでのMadlibには余り無かったストレートな女声ヴォーカル物でそのシナジー効果が存分に発揮されている。

とは言え何故Madlib程のプロデューサーが何故今更他人のプロデュースを求めなくてはいけないのか?
その理由は定かではないが、Freddie Gibbsとの「Bandana」に於けるトラップの導入が小気味良い驚きを与えたように、現在のMadlibが何らかの変化を求めるモードにある事は確実なように思われる。

本作のある種のらしくなさは、例えばDan The AutomatorAlec Empireといった人達に楽曲を丸投げしたThe Jon Spencer Blues Explosionの「Acme」や、St. Vincentの手を借りて異化効果を目指したSleater-Kinney「The Center Won't Hold」といった作品を思い起こさせる。
つまりはストロング・ポイントを封じてまでフレッシュネスを獲得した作品だと言う事が出来るだろう。

一方でMadlibMiles Davisを好きを反映したようなジャズ・ファンクのM10、M13のアフリカン・ジャズやM16のフラメンコ・ジャズ等、The Last Electro-Acoustic Space Jazz & Percussion Ensembleを思い出すトラックも多く、ジャズへの愛情がMadlibとKieran Hebdenを繋いだであろう事は想像に難くない。

Lost Girls / Menneskekollektivet

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シンセ・アンビエント/ドローンとリズム・マシンによるドラム・ビートにJenny Hvalのスポークン・ワード/歌。
時折装飾もあるがほぼ3つの要素のみの単純な構成で、更には要素のどれを取っても単体では然したる新奇性も認められないにも拘らず、それらが複合する事によってカテゴライズ不能オルタナティヴ・ミュージックが現出する様は正にマジカル。

例えばクリシェ的にも思えるハウスのビートの上を、過剰な音量のシンセと取り留めの無いハミングが揺蕩うM3は、その音色に目新しさはまるで無く、一歩間違えば凡庸なアンビエント・ハウスになりそうなところなのに、とてもではないがこれで踊れる気がしないオリジナリティの塊のような音楽になっている。
醸出するムードはまるで違うが、M4のある種の冗長さが産み出す奇矯さは例えばCabaret Voltaireにも通じる類のものだ。

これでポップネスの欠片も無ければ未だアヴァンギャルドで済まされるのだが実態は寧ろその逆。
M1ではヒプノティックなアフロビートの後半のここぞという場面で投入される上昇するベース・ラインが強烈なフックになっている。
まるでポップの錬金術の秘密を知っている人間が敢えてそれを小出しにしているような感じだ。

経験的に聴取中に中々言葉が浮かんでこない音楽というのは、余程詰まらないか自分の語彙力では表現出来ない程斬新かのどちらだが、本作は間違いなく後者に属する音楽だと言える。
他の何にも似ておらず、比類するものが何も思い浮かばない。
DarksideやMoor MotherにTirzah等、2021年もその先進性に唸らされた作品が幾つかあったが、ある意味ではそのどれよりも難解に感じられる。

Burial / Antidawn

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ビートレスが賛否両論を呼び起こしているようだが、逆に言えば従来のBurialとの違いはそこしか無い。
サンプリングによる歌/声の断片のコラージュ、クラックル・ノイズとレクイエムのようなパイプ・オルガン、そしてそれらが作り上げる茫漠として霞んだノスタルジックでゴーストリーな音像は余りにBurialそのものだ。

確かに2ステップのビートが無いのは寂しくない訳ではない。
但しBurialがBurialである為に、ビートは最初から必要不可欠な要素ではなかったのではないかと思える程、本作はBurialの作品として完結している。
それに正確に言えば完全にビートレスという訳でもなく、M4では超微小なイーヴン・キックとハイハットが確かに鳴っている。
とは言え散発的で身体を揺らす事すら出来ないのは確かであるけれど。

これまで例えば「Tunes 2011-2019」にもノンビートのトラックはあったが、どうしても強度の面でダンス・ビートに耳が向かってしまう結果、ある種のインタールード的な受容に留まっていたように思う。
対して本作ではビートが愈々極限まで相対化される事によって、Burialのサウンドのコアの部分が剥き出しになったという印象を受ける。
特に多彩なクラックル・ノイズは、単なる背景に留まらない豊潤な音楽的要素として存在している。

しかしそれでもこのサウンドアンビエントと呼ぶ事にはどうしても違和感を覚える。
その源泉には勿論絶えず挿入され続けるリリカルな歌の断片の存在もあるだろうが、それ以上にシーケンスと呼ぶには余りにも非連続的・断続的な上音が、聴く者の意識を様々な位相にパンニングさせる事が大きいように思われる。

Black Country, New Road / Ants From Up There

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Squidが思いの外良かったので購入してみたが、吐き捨てるようなヴォーカル・スタイルを抜きにすればポスト・パンクの一言で済まされる音楽ではまるでない。
ヴォーカルにしてもSquidに較べればしっかりとメロディを歌っており、投げやりなようでいて同時に熱量が高いその様は寧ろKing Kruleを彷彿とさせる。

管弦楽器奏者をパーマネント・メンバーとして抱えるバンドだけあって想像の範囲内ではあるが、サックスとヴァイオリンの音色がある種のジプシー音楽的なイメージを喚起し、Broken Social SceneとかJaga Jazzistとかいった名前を連想させる。
或いはまるきりQueenみたいM2は初期のDirty Projectorsを想起させたりもする。

パンクの要素があるとすればやはり時折聴こえるディストーテッドなギターで、轟音という程ではないが、長尺のM12はMogwaiGodspeed You! Black Emperorを彷彿とさせる。
時間を掛けて徐々にビルドアップする展開や静と動のダイナミクスは、ポスト・パンクというよりもポスト・ロック的だと思ったりもする。

とは言え殆ど無音に近い瞬間もあり、全体的には静謐で牧歌的な印象で、ファーストは未聴なので憶測の域を出ないが、敢えて如何にもポスト・パンクに有りがちな表現を避けたであろう事は想像に難くない。
それが成功しているのか否かは今一つ判断が付かないが、如何にも若者らしい反骨精神には共感を覚える (と言うか微笑ましい)。

Animal Collective / Time Skiffs

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インディ・「ロック」かどうかはさて置き、これまでで最も器楽演奏がはっきりと認識出来る作品であるのは間違い無い。
メンバーが口を揃えて語るように、特にPanda Bearが叩くフィジカルで素朴とさえ言って良いドラムの音色が作品のトーンを決める上での肝になっている。
相変わらず音数は多いが、ドラムだけではなく全ての音に人の手の質感や温度が感じられる。

コロナ・パンデミックの影響で、プリプロダクション後のレコーディングの殆どがリモート作業で施されたようで、時間と空間を共有しない作業環境が余り作品を煮詰め過ぎない簡素な作りに繋がったものと想像する。
直接顔を合わせない事で却ってトラディショナルな意味でのバンド・サウンドが立ち現れるというのは何とも逆説的で皮肉であり興味深い。

明確な歌の存在感から、「Strawberry Jam」辺りに近いという感想があるのも解らなくはないが、例えば「Fireworks」の圧倒的な生命力や躍動感と較べると終始チルアウトした、平熱のサイケデリアとでもいうような印象で、「Merriweather Post Pavilion」のようにユーフォリアで溢れている訳でもなく、正直物足りなさは否めない。

大人になったオリジナル・メンバー全員が久々に揃って制作された本作からはその成熟が滲み出している、と言うと聞こえは良いが、初めて聴くAnimal Collectiveが本作だったとしたら、果たしてゼロ年代で最も肩入れしたバンドになっていたかどうか。
ArcaやFKA Twigsが不気味な突然変異体や人形からヒトに成るのは良いけれど、Animal Collectiveが動物から人間になるのは気に入らないという、解り易くプリミティヴを有り難がる自分の単純さには些か呆れるが。

The Weeknd / Dawn FM

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俄かには信じ難いが、OPN「Magic Oneohtrix Point Never」と本作には殆ど兄弟のような近親性を感じる。
勿論スタイルも性格も大分違うが、FMラジオというモチーフや、全編に渡り一貫した明け透けな80‘s趣味に於いて、同じ腹から産まれた作品であるのは確かなように思われる。
アルバムを通じて特徴的なゲート・リヴァーブっぽいドラムの鳴りが如何にも80‘sフレイヴァを醸し出していて、「Blinding Lights」の大ヒットに気を良くしたのは想像に難く無い。

M2は宛らScritti Polittiのようで、最早オルタナR&Bと言うより正真正銘のシンセ・ポップ。
ヴァースに於ける低音ヴォーカルはGary Numanを彷彿とさせ、ニュー・ロマンティクスなんてタームさえ連想させる。
シンセ・ギターがいなたいM4やM5はMichael Jacksonへのオマージュだとしか思えず、続いて配置されたM6のAOR風に乗せたQuincy Jonesの語りも示唆的。

M8やM10は80年代後半のFMラジオか、深夜の海外の煙草のCMで流れていたようなイージー・リスニングで、猛烈に幼少期の記憶がフラッシュバックする。
もしかしたらThe Weekndも同世代だろうかと思って調べてみたが、90年生まれの一回り下の世代なので、やはりDaniel Lopatinに唆されでもしたのだろうか。

アッパーなアルバム冒頭の数曲のシンセのレイヤーはそこだけ取り出して聴けばコズミッシェ、つまり「Returnal」のようで紛れも無くOPNのもの。
相変わらずThe Weekndの歌もソング・ライティングも大して好きにはなれないが、シンセサイザー音楽として聴く分には相当面白い。
ポップ・フィールドで唯々巫山戯たいDaniel Lopatinと、コンセプチュアル・アートがやりたいThe Weekndの利害一致というところだろうか。
この如何わしさにDaniel Lopatinが大喜びする姿が容易に想像出来るが、同世代としてはその気持ちも解らなくはない。