Eiko Ishibashi / Car And Freezer

もう死んだ人たちのタイトなアンサンブルが齎す強靭なグル―ヴはそのままに、全編に渡ってフィーチャーされたストリングスやM4で基調となっているシンセやサクソフォン等、音色は多様化し、ポリリズミックな展開はあるものの、インプロヴィゼーション的なパートは減って、楽曲はよりコンパクトに纏まり、前作のプログレッシヴ・ポップス感はやや薄まった印象を受ける。

それよりも本作の最大のトピックは前野健太による歌詞で、これまでの石橋英子に日本語詩が無かった訳ではないが、明らかに固有名詞の多用などは本人の言葉のセンスとは180度異なり、ゴリラだのiPodだの部下だの野球場だのといった日常的・具体的な言葉が石橋英子の声で発される際の違和感が半端なく、その歌わされてる感が実に面白い。

2000年代前後、つまりエレクトロニカやポストロックの台頭と並行して日本のポップ・ミュージックに於ける歌詞は明らかに明確なストーリーテリングを忌避するようになり、具体的な名詞の使用を避けて抽象的な表現に徹する者と或いは敢えて具体的な名詞を文脈から剥し、諧謔的な笑いを誘う者とに二極化されたように思う。
例えば小山田圭吾Supercarは前者だろうし、向井修徳坂本慎太郎は後者に属すると言って良いだろう。
これまでの日本語で歌う際の石橋英子は明らかに前者の側に与していたと思うが、本作で敢えて対極に居る前野健太が書いた歌詞を歌わされる事である種のマゾヒスティックで羞恥プレイ的な、慎ましやかだが拭い去れない異様さを創出する事に成功している。

Disc1が日本語盤でDisk2が英語盤という順序にも日本語盤を単なるボーナス・ディスクにしない意図が見え隠れするし、更には日本語盤と英語盤とで微妙にアレンジを変えているらしく、確かに英語の方がよりコーラスが強調されているが、恐らくは実際に施されている以上に言語の違いは違った聴こえ方を齎している。
つまり他者の言葉を歌う事による違和の創出と言葉の違いが創出する音楽の差異という二重の仕掛によって言葉と音との関係性を巡る思索が表象されており、本作に於いてはサウンドそのもののプログレッシヴさよりもその点に石橋英子の実験精神が発揮されていると言っていいだろう。