Earl Sweatshirt / Some Rap Songs

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チリノイズで充満したサンプリング・ソースを極めてルーズに繋ぎ、投げやりにループした歪でローファイなビートは否応無くMadlibを思わせるが、同じように煙たくはあってもMadlibのビートはここまで空虚ではないし、もっとファンクネスもある。
M2の継ぎ接ぎだらけのパッチワークのようなループには不思議とジャジーな感覚もあるが、それにしても「Scum Fuck Flower Boy」における盟友Tyler, The Creatorの洗練振りとは対照的にそこはかとない異物感で充満している。

ビートは時に破綻を来し、スネアも必須要素では無くなっているし、M13やM14に至ってはリズムさえも崩壊している。
ループと言うよりはコラージュ的な瞬間もしばしばあり、何処かダブ的でフリーキーな感覚はヒップホップ版のSun Arawとでも呼びたくなる。
ビートレスで最早ラップとは呼べないレベルの呟きと地鳴りのようなノイズで構成されたM14等はDean Bluntの世界観にも近いように感じられる。

ラップはこれまでに輪を掛けて怠惰で、誰かが言っていたように全てがラップではないとは思わないまでも、徹底的に抑揚を欠いたフロウに快楽は皆無で、空間をスタッカートで区切るのではなく、ビートに纏わりつく煙のように揺蕩うそのスタイルは全く新しい発明の萌芽さえ予感させる。
従来のラップがビートというグリッド上に音符を配置してゆくような行為だとすれば、ここでのそれはビートを基準にしているようには思えず、しかしポエトリー・リーディングのように全く取り留めが無いとも言えない恐るべきファジーさで、ただトラックという枠組み/空間をビートとラップとがぼんやり共存しているだけ、とでも言うか。

スタイルや表現するエモーションは全く違えど、Earl SweatshirtやVince Staples、Little Simz等がそれぞれ独自のやり方でポスト・ポスト・トラップの地平で次なるオルタナティヴ・ヒップホップの在り方を模索する様は非常にエキサイティングで頼もしく、この分だと未だ未だ暫くヒップホップのセカンド・ゴールデン・エイジは続きそうだ。

Cat Power / Wanderer

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近年は様々なレンジのスタイルを採り入れていた印象があったが、本作では原点回帰を標榜したかのような、全編ギターとピアノによるシンプルなフォーク/ロックを展開している。
とは言え初期の特徴であったパンクの要素は見当たらず、子供が映り込んだジャケットから母としての円熟を表現したのだろうかと思うものの、全く慈愛に満ちただとか、朗らかな様子等は無く、これまでに輪を掛けて倦怠感が滲み出ている。

Lana Del Reyとの新旧サッドコア女王の共演となったM4等は、Feistの2017年作「Pleasure」に近い感覚もあるが、とは言え仲間達と一緒に作ったフレンドリーさとエクレティシズムに満ちていた「Pleasure」に較べてより華美さは無く憂いを帯びていて、そのブルージーモノクロームな色彩は寧ろCarole Kingなんかと並置したくなる。

キーボードやパーカッションにストリングス、管楽器等の装飾音の音色自体はそれなりに多彩だが、装飾音と呼ぶのが憚られる程に慎ましいレベルで、多層的なコーラスやオートチューンによる変調、残響処理も極々さり気無く、ギターとピアノと歌の存在感がアルバム全体を覆っている。
それらのアレンジやエフェクトが無かったとしても恐らく全く印象は変わらないであろうという意味で、完全なフォーク・アルバムだと言える。

本作のある種の地味さは前作の反動と、それが齎したMatadorとの確執を反映しているという事のようで、それだけにより素のChan Marshallによる表現であるのだろう。
フックが乏しい、と言うよりそれを放棄したような佇まいはまるで、日常なんて然程起伏があるものでもないでしょう、とでも言わんばかりであるが、宛ら日常詩のような(それこそ「リアル」な)音楽を有り難がる趣味はまるで無いだけに、今一つ楽しめない。

Deerhunter / Why Hasn't Everything Already Disappeared?

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冒頭のハープシコードに始まりこれまでのDeerhunterの作品の中で最も鍵盤楽器類の存在感が際立っている。
レトロ・フューチャー感満載のシンセとマリンバによるラウンジ調が「Moon Safari」の頃のAirみたいなM3等、特にシンセ使いは特徴的だが、「Fading Frontier」に於けるアンビエント的なそれと言うよりもアナログな響きを有していて、よりリズムやメロディに直接寄与している。

マリンバが奏でるアルペジオとサックスに淡白なドラムマシンと女声(或いはメンバーの誰かのファルセットか?)コーラスが絡むM8やM5の間奏やアルバム最後の長いアウトロで聴かれるリニアなドラム・ビートに乗せてピアノやギターやマリンバが奏でるポリリズムからはBradford CoxのStereolab愛がこれまでで最も判り易く表出しており、Deerhunter版のアヴァン・ポップ・アルバムと呼べそうな雰囲気がある。

曲調は「Halcyon Digest」に最も近いが、強烈な死の存在感は雲散霧消し、もっとレイドバックしていて、憑き物が取れたかのようにオプティミスティックな雰囲気さえ漂っている。
軽さという面では寧ろ「Monomania」に通じるようにも感じられるが、トラッシーなフィードバック・ギターはM1の後半に現れる程度で、相対的にギターの存在感は薄れ、アトモスフェリックな使われ方に終始しており、一般的なロック・バンドにおけるギターと補助楽器の主従関係は逆転している。

ドラスティックな変化はないが、しかしどのアルバムも確かに異なる表情や特徴を持ち、しかもその時々のトレンドとは全く関係が無いという、言うのは簡単だが実行するのは至極難しい稀有なキャリアを築いてきたという点で実はDeerhunterこそが誰よりも軽やかに飄々と2010年代をサヴァイヴしてきたロックバンドだと言っても良いのではないだろうか。

James Blake / Assume Form

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アルバムはUSのブラック・ミュージック界隈で引っ張り凧の現況を反映している。
Metro Boominと組んでそれぞれ(「Astroworld」に於ける客演へのお返しとばかりの)Travis ScottとMoses Sumney(James Blakeのカバーを契機にキャリアが始まったMoses Sumneyにとっては、念願のコラボレーションだろう)を招聘したM2とM3は、如何にも人気トラップ・プロデューサーとのコラボ風で、悪く言えば凡庸(ビートは丸ごとMetro Boomin任せだろうか)。
Travis Scottのフロウは人の作品でも相変わらずワンパターンで退屈で、対照的にアルバム中最も上がるのは、M8の4/4のキックとキレの良いクラップのアップリフティングなビートに乗った、Andre 3000のリニアで密集したラップだったりもする。

とは言え決してヒップホップばかりに目配せをした作品という訳でもなく、アルバムを通じてストリングスを始め、本物かシンセかはさて置きハープやヴィブラフォンにパイプ・オルガンと言ったピアノ以外の器楽音の存在感が増して、初期のゴスペルからチェンバー・ミュージックに接近した印象を受ける
(何処かBjörkを思わせる瞬間もある)。

但し残念ながら自身がミキシングに携わったOPN「Age Of」のようにクラシカルな音色を新奇に響かせる事に成功しているとは言い難く、M9後半のストリングス等は寧ろありきたりなイメージを喚起させる。
James Blake特有の独特の倍音を含んだシンセ音は唯一M7冒頭で聴かれる程度で、アルバムを通じて過剰な音響は一切無く、稀代のサウンド・エンジニアとしての仕事振りを期待する向きには些か欲求不満が残る内容ではある。

ソングライティングは前作で完成された感があるが、本作の特に後半のメロディは牧歌的で若干ユーフォリックですらあり、嘗ての身震いする程に寒々しい孤独なゴスペルは何処へやら、余程私生活が充実しているのだろう等とついつい下世話な事を考えてしまう。
新しい恋愛の影響は本人が認めるところだが、M5の女声ヴォーカルとのデュエット等は(この娘が相手なんじゃないか等とまた下世話な妄想が頭を過る程)如何にも男女の親密さが滲み出るようで、セカンドの時期のWarpaintのメンバーとの恋愛を振り返ると、1作置きに素顔を晒したジャケットと、何処か捉えどころが無く散漫な印象のサウンドを繰り返す癖と、恋愛の関係が偶然には思えなくなってくる。
満ち足りた気分が大胆で挑戦的にさせるという事なのか、或いは単に浮き足立ってしまうだけなのか。

Travis Scott / Astroworld

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シングル・ヒットしたM3のアンセミックなイントロには流石に惹き付けられるものがあるし、M7の如何にもTame Impalaなオープニングには昂揚感もあるが、以降ジャジーなビートが異質なラストM17まではトラックのヴァリエーションも乏しいし、然したるフックも無く驚異的なまでに一本調子で非常に退屈。
Travis Scottの声質は至ってノーマルでフロウに引き出しも少なく、ラップ自体に聴きどころは極めて少ない。
時折耳を覚醒させる瞬間はJames Blakeの歌声だったりStevie Wonderによるハーモニカだったりと他人によって齎されるものばかりで、何処かで指摘されていた事ではあるがTravis Scott自身の存在感は限りなく希薄。

トラップにアンビエントにスクリューにオートチューン、10年代以降のUSヒップホップを象徴する要素が満載で、現在のアメリカのヒップホップのメインストリームど真ん中といった感じのサウンドに率直に言って流石に飽きは否めない。
R&Bで言えば2017年のSZA「Ctrl」が一つの集大成を感じさせたものだったが、翌年の2018年にはJanelle MonáeにしろKali Uchisにしろ、トラップ+アンビエントの潮流から逸脱する作品が多く、そこから遅れる事1年で本作がヒップホップの一つの時代に区切りを付ける事になるのだろうか。

仮にそうだとしたら次のフェーズの始まりを告げているのは、本作とは対照的に全く新しい価値観の萌芽さえ感じさせるEarl Sweatshirt「Some Rap Songs」かも知れないし、やはり意識的にトラップを忌避しているように感じられる最近のKanye Westがトリガーを引いているのかも知れない。
(何の抵抗も無く賞賛する気にはなれないが、その時流を掴む感性は流石だとは思う。)

本作はJames BlakeがモダンなUSヒップホップに寄った「Assume Form」に通じるメランコリーで覆われているが、Drakeに象徴される北米のヒップホップに於けるメランコリアの時代が終わり、もしかすると今度はディプレッションの時代が到来しようとしているという事かも知れない。
何れにしてもダウナーである事には変わりがなく、当面90’sマナーのパーティー・ラップ等は望めそうにない。

Tim Hecker / Konoyo

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最近改めて「Virgins」を聴いて
冒頭の音が余りに本作のオープニングを飾る笙の音色に酷似している事に驚いた。

これはTim Heckerの生成するデジタル・シンセの音が偶然笙に似ていたというよりも
笙が発する独特の倍音に楽器から音が鳴っているというより寧ろ
笙という「機器」を通じて音が生成されているような感覚があるからだろう。

Tim Heckerがこの笙の音色に魅せられた事を発端に本作が制作されたであろう事は想像に難くない。

確かに笙の他にも篳篥や琴に鼓といった和器楽の音をはっきりと認識出来るし
各トラックのタイトルからは
「Konoyo」=「This Life」から「Anoyo」へと至る
一連の過程を描いた作品である事が推測され
楽器のみならず死生観といった日本文化そのものから着想を得て
制作された事は間違いないように思われる。

但し全てのトラックで決まって和楽器がフィーチャーされているという訳でもなさそうで
M5ではチェロも使用されている。

雅楽を意識させる瞬間は殆ど無く
特段雅楽とのコラボレーションという感じもしないし
テーマに反してオリエンタリズム微塵も感じない。

寧ろ本作に於ける和楽器の音色は
特有の音階から切り離され電子音による補助を受けた結果
新しい響きを獲得しているようにも感じられ
Oneohtrix Point Never「Age Of」に於ける
チェンバロといったクラシカルな西洋楽器の音色の再発見と共振するようでもある。

特にやはり吸って吐いても同じ音階が出せるという
笙の構造的特性に由来する持続音の上下への遷移は非常にユニークで
Tim Heckerの生成するシンセ音と同調する事で我々日本人が知っているその音
(例えば宮内庁の年中行事等をイメージさせるそれ)とは全く異なる響きを獲得しており
単なるオリエンタリズムを超えた音響の化学的アプローチが齎す
異文化混交による革新の好例と言って良いだろう。

Fucked Up / Dose Your Dreams

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M1のハードコア・パンクとサックスの組み合わせからは、大嫌いだったKemuriなんかが頭を掠めるが、年を取ったからなのか死に体のパンク・ミュージックに対する愛着故なのか、嫌悪感は無く寧ろ思わず頬が緩んでしまう。
M7の正統派ハードコアも好みだし、サックス入りだがオリジナル・パンクのようにストレートなDisc2-M1も全く嫌いじゃない。
物凄くポジティブ・パンクな曲調に「I Don't Wanna Live In This World Anymore」とか、Disc2-M3ではBeach Houseと見紛う程のシューゲイズ/ドリーム・ポップ風に「How To Die Happy」とか、タイトルにもユーモアが効いている。

ハードコアのクリシェをなぞるような絶叫系のヴォーカルとプレーンな女性コーラス或いはピアノやストリングスといったクラシカルな器楽音の対比が象徴するように、良くも悪くもジェンダーの形態も含めて現代のパンク/ハードコアの在り方を模索している稀有なバンドであるのは間違いない。
ポスト・ハードコア(特にエモ)にもチェロやバイオリンを取り込んだバンド(例えばCursiveNaht)は少なくなかったが、まるでポスト・ハードコア等パンク史に無かったかのような有り様も興味深い。

しかし一方でM1冒頭の冗長なイントロやM2のシンセ・シーケンスは蛇足としか思えないし、Death GripsみたいなDisc2-M6は未だ受け入れ易いが、M6等の打ち込みビートの導入は00年代のロック化していったUnkleみたいに大仰で、ハウスのビートとヒプノティックなヴォーカルの組合せが(イメージだが )Ian BrownみたいなM8に至っては些か関心しない。

パンクの歴史を背負いながらも、在り来たりなクリシェから遠ざかる為には何だって採り入れると言わんばかりの強烈な意思が感じられる音楽で、それはそれで頼もしくもあるが、清々しいDisc2-M8等の確かに新奇さは皆無であってもタイムレスな魅力に触れると、このご時世にハードコアを選ぶ事自体が既に余りノーマルな行為ではないのだから、もっとストレートでも良いのではないかと思ったりする。