MGMT / Loss Of Life

ディスコやシンセ・ポップ色の濃かった前作「Little Dark Age」に較べて全体的にアコースティック・ギターの音色に存在感があり、「Oracular Spectacular」の頃のサウンドへの揺り戻しを感じさせる。
特にM7は久々に例えばThe Byrdsの子孫のようなMGMTサイケデリック・ロック・サイドが惜しげもなく披露されている。

Christine And The Queensをゲストに迎えたM3も非常にMGMTらしいシンセ・ポップであるが、同時にChristine And The Queensの楽曲としてもまた同様で、加えてアシスタントとしてプロダクションに関わったDaniel Lopatinの要素もしっかりと聴き取れる。
そしてそれが2024年現在の音として余りに違和感が無さ過ぎると言うか、つまりMGMT的なものが全く古びないという事に驚かされると共に、逆に若干の居心地の悪さも感じる。

2000年代の中頃にあって「Kids」や「Time To Pretend」のチープネスは確かに新鮮に響いたが、それはその先史に当たる2000年代前半、つまりはエレクトロニカポスト・ロックの時代との対比によってこそ鮮烈さが増した筈だった。
それなのにそこから20年を経た現在でも尚、MGMT的なものがある程度有効に聴こえるという事実は、まるで時間が止まってしまったかのような感覚を惹起する。
実際にはゼロ年代で止まったと言うよりは、凡ゆる時代の要素が等価且つ無秩序に漂流するスーパー・フラットが現実化したという事なのだろうとは思うが。

ともあれそのチープネスが故にメディア・ハイプとの謗りを受けたMGMTであるが、「Electric Feel」のような楽曲に象徴されるソング・ライティングの巧みさやメロディ・メイカーとしての才能を以って、見事に20年間をサヴァイヴしてみせた。
そしてそのストロング・ポイントは本作でも遺憾無く発揮されている。

Future Islands / People Who Aren't There Anymore

単にツイン・ギターの代わりにシンセを使ったエモ、と言えばそれまでといった感じのサウンドではあるが、ゴスのようともニュー・ロマンティクスのようとも言えそうなヴォーカルに違和感があり過ぎて、ひょっとしてある種のジョークなのだろうかと訝しんでしまう。
アーティスト写真に写る地味な中年男性4人の佇まいは宛らGuided By Voicesのようだが、見方を変えてNew Orderだと思えば腑に落ちるような気もしなくはない。

センチメンタルなメロディも手伝って感触としてはThe Postal Serviceなんかに近いが、ベースとドラムが徹底して生音なのが却って奇妙な感じで、シンセ・ポップではなくニュー・ウェイヴという言葉を使いたくなる感覚も解る。
M3やM11等のスロウなバラードに至っては最早10ccみたいな80’sAORのようでもある。

Ian CurtisかPeter Murphyのような、或いは時折ちょっとIggy Popを彷彿とさせる声で、MorrisseyDavid Sylvianみたいにシアトリカルに、且つ力一杯歌われるM5のA-Haのような80’s風のシンセ・ウェイヴは特に冗談じみている。
これが例えばWeezerCloud Nothingsみたいな如何にもエモといった感じの青臭い声だったとしたらさぞかし詰まらなかった事だろう。

ヴォーカルのSamuel T. Herringにはラッパーとしてのキャリアもあり、最近では何とBilly WoodsとKenny Segalの「Maps」にも客演があったするから益々訳が解らない。
Madlibとのプロジェクトの経験もあり、ラッパーとしてはオルタナティヴ志向が強いのは間違い無いと考えると、益々このバンドを正気でやっているとは思えない。

Sleater-Kinney / Little Rope

先ずは低音域のヘヴィネスが特徴的で、恐らく再結成以降で最も騒々しいサウンドが展開されている。
一方でSt. Vincentを招聘して行われた「The Center Won't Hold」に於ける実験の成果も損なわれてはおらず、エレクトロニクスやキーボード類の音色とフィードバックが生み出す残響が重なる事でサウンドに厚みを加えている。

メロディにはいつも以上に切迫感があると同時に、M3等は何時になく哀愁を感じさせるし、M7は獰猛さとセンチメントとを往き来するかのよう。 
これにはCarrie Brownsteinの両親の交通事故死という痛ましい出来事が大きな影響を及ぼしているものと思われるが、それでも決して染みったれただけの御涙頂戴の作品にならないのがSleater-Kinneyの素晴らしいところだ。

メンバーと家族の違いはあれど、身近な人の死にインスパイアされているという意味ではFoo Fighters「But Here We Are」に通じると言えるかも知れない。
特にエモーショナルで強く哀別の感覚を惹起するM9は、同作の壮絶なラスト・ナンバーを思い起こさせる。
そこに共通する感覚を一言で表すならばレクイエムという言葉がしっくり来る。

陳腐なのは百も承知だが、それでもやはりこういう作品を聴くと、作り手の熱量や想いが音に映り込み、それが聴く者の胸を打つという事は間違い無くあるのだと思う。
勿論そこには本作なら死別、John LennonBob Marleyなら平和への願いでKurt Cobainの場合は自己嫌悪といった物語によるバイアスが掛かるものだという客観性は失ってはいけないとも思うのだが。

Speakers Corner Quartet / Further Out Than The Edge

Joe Armon-JonesやShabaka Hutchingsの参加からEzra CollectiveやSons Of Kemetのようなサウス・ロンドン・ジャズを想像していたが、両者のようなダンス・ミュージックとしての機能性は希薄。
強靭なリズム隊が生み出すビートには、M1のハウスやM11のダブステップのハーフ・ステップのようなものもあるが、大半はブーンバップ的でどちらかと言えばヒップホップ/R&B寄りと言えるものの、Makaya McCravenやKamasi Washingtonの一部の楽曲のようなスピリチュアル・ジャズ路線とも様子が違う。

更に言えば狭義のジャズの一言で済ますのが憚られるファジーさがあるのは、多くの曲でヴォーカルをフィーチャーしているせいもあるだろうし、ベースとドラムの他にはフルートとヴァイオリンという、一般的なジャズからすると周縁的な楽器で構成されたカルテッドという成り立ちに起因するところもあるかも知れない。

ヴァイオリンの音色は確かにこのバンドのシグネチャ的役割を担っているが、背景的な演奏に終始している印象で、フルートに至っては殆ど存在感が無い。
一言で言えばリード楽器の不在が顕著で、ゲストのヴォーカルやラップ、スポークン・ワードがその空白を埋めている。
その結果Tirzahが歌う曲は余りにTirzahだし、Samphaが歌う曲はごく自然にSamphaの楽曲として聴こえる。

Ezra CollectiveやSons Of Kemetと較べても各楽曲のソロ演奏は少なく、更にエレクトロニクスやノイズと呼んでも良いような装飾音にも一定の存在感があり、演奏という行為やプレイヤビリティに固執する様子は一切無い。
形態としてはジャズ・カルテッドでありながら、ここまでパフォーマーのエゴが希薄なのも珍しく、実に興味深いバンドではある。

Jockstrap / I<3UQTINVU

本作はリミックス・アルバムと言われているようだが、実際には「I Love You Jennifer B」の音源のセルフ・サンプリングで構築されたリコンストラクトと言う方が正しいように思える。
その結果は断片的で本編以上にスキゾフレニックではあるが、(知っている曲が元だから当たり前なのだが)耳馴染みが良くかなりポップ。

本編よりもダンス/クラブ・ミュージック的な要素が強いのも特徴で、M1はFatboy Slimのビッグ・ビートとJusticeのフレンチ・エレクトロのマッシュアップのよう。
90年代にJon SpencerやRoyal Truxがロックンロールをネタにしたのと同様のセンスでエレクトロニック・ダンス・ミュージックをメタ・フィジカルに扱っているような印象で、そう考えればレイヴのクリシェの権化のようなSkrillexを褒め称える感覚も理解出来なくはない。

偶々久々にM.I.A.の2010年作「Maya」を聴いた後に続けて本作を聴く機会があったのだが、余りに連続性と言うか共通する感覚があって驚いた。
(ノイジーでサブベースの音圧が過剰なM7なんかは特に。)
「I Love You Jennifer B」を聴いて最初に連想したのはSleigh Bellsだったが、時代が一回りしている事を考えれば、そろそろその辺りのサウンドが再評価の対象になってもおかしくはない。

それらの感覚を言い表すとすれば、「軽薄なラディカリズム」或いは「ラディカルな軽薄さ」という表現が思い浮かぶが、そこにどちらかと言えば硬派な印象のあるCoby Seyが絡んだりするから現在のUKのシーンは面白い。
ところでそのジャンル横断的なネットワークの元を辿ると、ハブになっているのは実はMica Leviなのではないかと思ったりしたのだが、実際のところどうなのだろうか。

Sampha / Lahai

先ず耳に飛び込んでくるのはM1やM2、M10等のドラムンベース風のブレイク・ビーツで、その生ドラムの音色はアルバム全体に渡って存在感を放っている。
特にSpeakers Corner QuartetのメンバーでもあるKwake BassやYussef Dayes等のサウス・ロンドンのジャズ・シーン周辺で活躍するドラマーの貢献は大きいように思われる。

と言っても単純にドラマーのスキルにだけ依存しているという訳ではなく、例としてM14等が解り易いが、生のドラミングと電子音のプログラミングとが不可分に一体となって、精巧なビートを組み立てている。
M2等の複雑なビートは流石のYussef Dayesと言えどもとても人力のみとは考え辛く、「Process」に較べるとSampha自身のビート・メイキング技術も相当に向上しているものと思われる。

上音の方は相変わらずピアノが中心で、前作には「(No One Knows Me) Like The Piano」なんていうタイトルの曲もあったくらいなので、余程の拘りがあるのだろう。
そこにコーラスやストリングスやエレクトロニクスで補強・装飾が施されたサウンドは前作から引き続きといった感じで、少々フェアではない気もしなくはないが、廉価版のJames Blakeといった元々の印象が大きく覆る事はない。

他の音色面の特徴としては、多くの曲でSampha以外の人間の声が断片的に用いられている点が挙げられる。
コーラスと言う程には曲を補完していないし、スポークン・ワードと言うには断片的過ぎるそれら声は、M2の最後の取って付けたかのようなYeajiのハミングに顕著なように、偶々録音に紛れ込んでしまったかのような佇まいで、ジャケットに映る少女のイメージと被る事からも、何らかのコンセプトがあるのかも知れない。

The Smile / Wall Of Eyes

M1の優雅なストリングスは「A Moon Shaped Pool」との連続性を感じさせ、最早Thom YorkeとJonny Greenwoodの2人が何をやろうと、過去のRadioheadの作品や楽曲を連想させてしまうというのは実に難儀な話ではある。
Radioheadというバンドの偉大さの裏返しであるのは間違いないが、最早トラップでもやらない限り新鮮味を得るのは難しいのかも知れない。
(物の例えであって、聴きたいという事では全くないが。)

「Hail To The Thief」以降は次のアルバムまで4〜5年、「A Moon Shaped Pool」からは早く7年が経過している事を考えると、2年という短いスパンで新作を出せる程、Thom YorkeとJonny Greenwoodにとってのこのプロジェクトが気軽なものだという事だろう。
このアルバムがRadioheadの名義で発表されたとしても、拍子抜けこそするかも知れないが、失望するファンは少ないだろう事を思えば、Radioheadの名前に誰よりも重圧を感じているのはそのメンバー達で、課しているハードルの高さが推し量られる。

相変わらずCanかNeu!みたいなM3やM4からは、事前に入念に作り込まれたコンポジションを基にしているというよりも、スタジオでのジャム・セッションやインプロヴィゼーションを発展させて楽曲が組み立てられているものと想像される。
Philip Selwayがテクニックの面でTom Skinnerに大きく劣るとは思わないが、現場での突発的なアイデアやその引き出しの多さには多少なりとも差があるのだろう。

冒頭から5/4拍子と、特にリズム面での捻くれ具合はこのバンドのアイデンティティとも言え、Thom YorkeとJonny Greenwoodが純粋にTom Skinnerとの共同作業を楽しんでいる様子が伺える。
ある意味で趣味的とも言えるが、それでこのクオリティには唸らされる。