Four Tet / There Is Love In You

凡そ10年前のエレクトロニカの隆盛の中で台頭したアーティストは、今何らかの形で現在のシーンと自らの作家性の間で試行錯誤しているように思える。
シーンの立役者であり他に類を見ない進歩主義者であるAutechreですら、前作ではライヴとアンビエントというルーツに立ち返らざるを得なかった訳だし、Kid606のように半ば開き直ってベースカルチャーに接近した人も居る。
それら試行錯誤の産物は詰まらないどころかむしろ逆で、アーティストが第一線に居た時では有り得なかったであろう奇妙さやアンバランスさが非常に興味深い事が多い。

Fout Tetの新作もまた同じような意味で面白いアルバムだ。
ここでは実に巧妙なやり方でエレクトロニカが否定されている。
エレクトロニカの定義は一概に出来ないものの、多くの例外を認めつつ佐々木敦が提起した「反復の否定」とは個人的な拠り所としてきた定義でもある。
この作品の徹底したミニマリズムは、言わば「反復の否定」の否定として脱エレクトロニカを感じさせる。
何よりもその手のサウンドでは一種のタブーですらあった四つ打ちの多用は執着すら感じさせる程で、そのビートの基幹であるキックは多くのエレクトロニカに共通するボトムの軽さを覆すに充分な重さを以って響く。

更にもう一つの脱エレクトロニカ的要素として声の多用が挙げられる。
エレクトロニカにおける声の使用は竹村延和が多用したソフトウェアで生成されたロボットボイスに顕著なようにその多くが非人間的に加工され、時にズタズタに切り刻まれた。
ここで聴ける女声サンプリングはまるでハウスのトラックのように肉感的でストレートに使用されている。
このような脱エレクトロニカ的要素は、字面通り読み取れば「身体性の回復」と言い換えても良いだろう。
しかし全く予想外にこのサウンドは些かもフロアライクには聴こえない。

それは其処彼処に聴こえるエレクトロニカの残滓に起因しているかも知れない。
アルペジオや可憐な電子音の連なりが醸し出すセンチメンタリズムはフォークトロニカそのものであるし、特に2曲目の冒頭で聴こえる揺らぎのあるグリッチノイズの質感は確かにあの時代を思い起こさせる。
部分的なエレクトロニカ否定と肯定の共存というアプローチは、本人がどれだけ意識的かは判らないが、ある意味非常に短絡的なコンセプトではありながら、その根無し草的な有様は、表面的な印象よりもずっと奇妙で面白い。
まるでかの時代に喧伝された「ベッドルーム」と「フロア」の二項対立を嘲笑しているかのようだ。
ある時代の終焉を通過しなければ決して産まれなかったであろう音楽であり、こういう例があるからこそ立脚するシーンを失ったアーティストの音楽には一聴の価値があるのだと思う。