Actress / R.I.P.

自宅のスピーカーが貧弱な事を差し引いても、これ程ヘッドフォンを通して聴いた際の印象が変わる音楽は随分と久々で、展開はミニマルだし主旋律やリズムを追っているだけでは退屈極まりなく感じられたが、背後では目眩く複雑で豊潤なノイズの世界が繰り広げられている。
M2のサーフィス・ノイズのアタッキングの微細な差異が作り出すビートは宛らクリック・ハウスのようだし、トイピアノみたいな奔放な電子音にグリッチ・ノイズが絡み、遠くでハーシュ・ノイズが響くM6なんかは恰も竹村延和を聴いているような錯覚に陥る。
高音の可憐な電子ノイズが跳ね回るM3等はもうエレクトロニカそのもので、何故Actressがポスト・ダブステップの代表格の一人として扱われているのか皆目見当も付かない。

驚くのはともすればエレクトロニカの焼き直しに聴こえなくもないこの音楽を作ったのが黒人だという事で、偏見丸出しと言われればそれも否めないが、テクノ〜IDMエレクトロニカという変遷は、黒人音楽の身体性が白人の手によって剥されていくプロセスにも見えたのも確かだし、少なくとも電子音響の担い手やノイジシャンの中に(Antipop ConsortiumやSensational等の電子音に肉迫したラッパーこそ居たものの)目立った黒人が存在しなかったのは確かである。

ただActressの存在に、ブラック・エレクトロニカといった文字通りの色物以上の面白味があるのは、存在のアンビバレンスがはっきりとサウンドに表象されている点で、それはノンビートのアンビエント風のトラックよりも明確な4/4のキックを伴うトラックに解り易く表現されているように思える。
そこから聴き取れるのは、どんなにノイズに塗れていようとActressの音楽が反復を基調に成り立っているという事で、それは佐々木敦Autechreサウンドを通じて説明した「反復の否定」というエレクトロニカの定義と真っ向から対立するものだ。
そして反復とはまたFunkadelic/ParliamentFela Kutiを想起するまでもなく多くの黒人音楽の特徴でもあり、Actressの音楽にブラック・ミュージックの冗長性を発見するのはそう難しい事ではない。

その音楽や存在は「黒人=反復=身体性」/「白人=非反復=脱身体」というような尤もらしい公式の枠外にあり、またそれを無効化するような異端性に於いて、ちょっと他に比類するものが思い当らない。