Bloodthirsty Butchers / No Album 無題

この新作と同タイミングでリリースされた「Kocorono」のリマスター版には「1月」があるらしい。
その存在は薄々聞き知ってはいたものの、いざこうして眼前に出されるとどうにも怯んでしまうところもある。
自分は何故か、夏目漱石の「こころ」にインスパイアされたその物語の主人公が次の1月を迎えられなかったものと、勝手に決め付けていた覚えがあり、単なる思い込みとは言え、その妄想が作品に対する思い入れと不可分に結び付いている部分もあって、目下のところ「1月」を聴く気は起こっていない。

今聴くと「Kocorono」という作品がBloodthirsty Butchersにとって如何に過渡期的な作品であったかが良く解る。
ポスト・ハードコアの残滓と「良い歌」への志向性の間のギリギリのバランスこそがその作品の最大の魅力であり、また今なお傑作として聴き継がれる所以だろうと思う。

その後のBloodthirsty Butchersは一貫して後者の方(良い歌)を追求してきた。
マイナーセブン系のコードを主体としたセンチメンタルなメロティはメジャーコード主体のポジティヴィティ溢れるメロティへと変化していき(それは「Kocorono」の成功で植付けられつつあった「哀愁」や「感傷」といったイメージへの反撥でもあっただろう)、「Kocorono」ではメロティを歌う事への躊躇や恥らいを感じさせる呟くような吉村秀樹の歌は、まるで開き直ったかのように高い音域でストレートに歌い上げられるようになった。

正直なところその方向性には、吉村の歌が不安定(要は下手)な事もあって、何処か居心地の悪さや痛々しさを感じてもきた。
それでも決して失望感を覚える事はなかったのは、その方向性が確固たる信念を以て選択されているように受け取れたからだ。

現にそのメロティや歌への志向性にも関らず、「Kocorono」以降のBloodthirsty Butchersサウンドはポップになるどころか、むしろ特異で難解になっていくように感じられた。

Electro Harmonix社の名器Big Muffが創り出すディストーションは今でもBloodthirsty Butchersサウンドを特徴付けているが、「Kocorono」までのディストーションが音の塊として聴く者の身体にダイレクトに響き、ハードコア的なダイナミズムや暴力性を表象するように感じられるのに対し、以降のギターサウンドは空間を包み込むように拡散した倍音によるアトモスフェリックな音響へと変化していった。

特にライブに顕著だったが拡散したディストーションは結果的に歌のメロティを補強する機能を失っていき、その代わりに台頭した射守矢雄のベースはより高い音域をキープして、まるでアルペジオのように雄弁にメロディを奏でるようになった。
そうして唯一無比でオリジナルな、ボトムレスなウォールオブサウンドが完成したという訳だ。

それは時代的にも「音響派」や「うたもの」との共振を感じさせるアプローチでもあった。
尤も「感覚の天才」こと吉村秀樹がそんな事を意識していたとは到底考え辛いのだが。

この新作も基本的にはそのような「Kocorono」以降のアプローチに則られた作品ではある。
但しこの作品ではBloodthirsty Butchersのオリジナリティを決定付けてきた射守矢のベースは控え目で、幾分オーソドックスな印象も受ける。
ここで不安定な歌を補強する役割を演じているのは田渕ひさ子のギターであり、過剰とも取れるコーラスやオーバーダブの多用だろう。

メロティには何処か「Kocorono」を彷彿とさせる感傷的な部分もあり、吉村秀樹の天性のメロティセンスを充分に堪能出来る。
ギターのサウンドも心なしかダイナミズムを取り戻したかのようにも聴こえ、人によっては「Kocorono」との類似性を指摘する声がある事も不思議ではない。
個人的にも「Kocorono」以降で最も安心して聴ける作品かも知れない。

しかし一方で圧倒的なオリジナリティは後退し、乱暴な言い方をすればかなり「普通」なバンドサウンドに聴こえる。
何処か混迷を感じさせる内容でもあり、どうにも複雑な気分ではある。