山本 精一 / Rhapsodia

スピーカーで何度か聴き流した程度では、前作に比べても音色が削ぎ落とされ、ギター、ベース、ドラムに歌という要素で大半が構成されたロック寄りのバンド・サウンドに、「Rhapsodia」と冠された割にはいつにも増してあっさりとした印象を受け、そのドライさが「3.11以降」に対する山本精一なりのリアクションなのかと思いもしたが、ヘッドフォンで聴き込む程に何とも厄介な姿が立ち現れてきた。

特に象徴的なのがM1で、一聴する限りでは淡々としたアンチ・クライマックス的とも言える歌の背後で、シンプルに爪弾かれているように感じられたギターは、良く良く聴けば微分するとまるで「Noa」シリーズのような細かいフレーズの、パズルの如く複雑なレイヤーによって形成されている事が解る。
ともすれば一発録りようにさえ聴こえる「あっさりしたバンド・サウンド」に一体どれだけのオーヴァーダブが施されているのだろうか。

ミクロコスモス的とでも言えば良いのか、そのようなある種のノン・イディオマティックなギター・フレーズの集積を、俯瞰的に一要素のように聴かせる手法は確かに一つの特徴であるように思えるが、本作でのギターの音色や奏法はもっと多彩で幅広い。
ここではBoredomsのノイズも羅針盤のフォーク・ギターもRovoのコズミックな残響も、はたまたMy Bloody Valentineと言うよりはSmashing Pumpkinsみたいなゴリゴリとしたディストーションさえ聴こえ、ギタリスト山本精一の集大成と言ってみたい衝動にすら駆られる。

ただその在り方はDerek BaileyJimi Hendrix、或いはThurston MooreでもKevin Shieldsでも良いが、特定の技法や音色と深く結び付いた従来のギタリスト像とは全く異なっていて、聴いた瞬間にそれと解るようなキャラクターは山本精一のギターには存在しない。
そこにフェティッシュな感覚は一切無く、ギターをあくまでも道具として扱うような、冷徹で即物的な視点が聴き取れるという点に於いて、ひょっとすると山本精一というギタリストは、例えばMark McGuireのような新しい世代の先達のような存在でなのではないかとさえ思えてきたりもする。