Daedelus / Bespoke

作品毎にスタイルがころころと変わるミュージシャンというのは決して少なくないが、Radioheadが良い例であるように、彼等の多くは熱心なポップ・リスナーであり、スタイルの取捨の背景には時々のトレンドからの影響が透けて見える場合が多い。

Daedelusのスタイルもまた作品毎に一定しないが、彼流のレイヴ讃歌であった前作がオリジナル・ダブステップ(と言うよりBurial)のダークなムードを引き摺った2008年に明らかに周囲から浮いていた事を鑑みても、またTigerbeat6のコンピレーションへの参加やGuillermo Scott Herrenによるフックアップが示すキャリア初期におけるエレクトロニカ・シーンとの関わりや、近年のFlying Lotus周辺のLAビート・シーンとのコネクションにも関らず、そのサウンドが何れのシーンにも相容れないように感じられる事を思い起しても、そのスタイルの変遷の背後に透けて見えるものなど皆無で、只々何がしたいのか良く解らないというのがAlfred Darlingtonの音楽の魅力でもある。

本作はDaedelusのキャリア中でも取り分け歌が多用されており、それは丁度、盟友Prefuse 73の近作と同調する傾向であるが、当然そのサウンドにGuillermo Scott Herrenのような神妙さは無く、ユーモアとフレンドリーなメロディで溢れている。
けれどもM1の深くフィルターが掛った音像に顕著であるように、本作には後一歩のところでポップネスを掴み損ったような、痒い所にもう一息で手が届かないようなもどかしい感覚があり、それはPrefuse 73の近作に覚えたある種の「難解さ」と、程度の差こそあれ均質のものであるようにも思える。

「The Only She Chapters」では多様な要素を押し並べて背景化する事によって、音の焦点が消失したようなファジーな音像が創出されていたが、本作はそれと対を成すように、様々な音やメロディやリズムが全く調和を無視して前景化される事で、同時に幾つもの焦点が立ち現わるような感覚を齎す。
考えれば、そのサウンドにおいても、無節操に見えるスタイルの変遷においても、特定の焦点を定めない事こそがDaedelusのキャリアを通低するテーマのようなものではないか。
言い換えれば「作家性を持たないという作家性」とでも言うような。