Prefuse 73 / The Only She Chapters

近年のLAやグラスゴーを中心とした新しいビート・バブルとでも呼べそうな状況の中で、何処かGuillermo Scott Herrenには冷遇を受けているような印象がある。
テクノ以降のエレクトロニック・ミュージックとヒップホップの接合において、彼は紛う方無き先駆者であり、DaedelusやGaslamp KillerやNobodyを逸早くフックアップした存在であるにも関らず、そのシーンから完全に疎外されているようにも見える。
Prefuse 73サウンドとの連続性について言及された際のFlying Lotusの嫌悪感に満ちた返答を自分は今でも忘れられない。)

Savath & Savalasのバンド化によって、Prefuse 73がGuillermo Scott Herrenにとっての唯一のソロワークになった事で、制約を取り払ったという面はあるだろうが、一方でそのような状況が本作のビート離れを誘発したという事も考えられなくはない。

完全に背景と化したビートに対して、多用される女声ヴォーカルは確かに作品全体を縦断するテーマとしてトータリティの創出に寄与しているが、個々のトラックにおいては他の多種多様な音と較べて特別扱いを受けている感じは無く、あくまでもアトモスフェリックな使用法に留まっていて、ソング・オリエンテッドな印象は全く無い。

Guillermo Scott Herrenは本作を(リスナーに対して)開かれた作品であるという事を強調していたが、本作の非ポップ性についての自覚が無ければ有り得ない発言でもあろう。
実際、本作のサウンドはある意味で非常に「難解」であるように感じられる。
音楽の難解さにも幾つか種類はあると思うが、ここでのそれは集中的・能動的な聴取に関わるものだ。

人には音楽を聴く時に意識的であれ無意識であれ、特定の音に焦点を当て、その他の音を背景として知覚している部分があると思う。
少なくとも自分の場合はサウンドの基軸となる音との
時間軸上の、或いは空間的な関係において、様々な装飾音やノイズを認識する事で音楽の全体像を把握しているようなところがある。

ところが本作にはビートや女声ヴォーカルを含めて、全ての音が背景化しているような印象があり、特定の音に焦点を合わせようと耳を凝らしてみても、あと少しのところで様々な音に掻き消され一向に明瞭な像を結ばない。
それはまるでコンタクトレンズを外した状態の視界の如く、全てがぼやけた不明瞭な世界で、Guillermo Scott Herren自身が誇るように新しい音響の提示であり、その先進性に驚嘆の念を禁じ得ないものの、これが音楽の未来なのだとしたら今一つ楽しみには感じない。