Ryuichi Sakamoto / Async

咽頭癌からの復帰作となる本作について、坂本龍一はインタビューで死を意識した経験からの影響を語っていたが、成る程確かに今にもパトラッシュが天に召されそうなM1のパイプオルガンの響きには正にレクイエムの風情がある。
(と言い出したら氏のピアノ曲は全てレクイエムのように聴こえなくもないが。)
くぐもった音響のシンセレイヤーがメランコリックなメロディを奏でるM3等、何処か聖的でスピリチュアルなイメージを喚起させる曲が多く、確実に死への接近は本作に影を落としているようだ。

確かに仮に遺作になったとしても違和感の無い内容ではあるが、かと言ってDavid Bowie「Blackstar」と同様に、感傷的なだけでもなければ特段キャリアを総括するような作品にもなっていない。
身近な物音/環境音にインスパイアされたと語るように、フィールド・レコーディング/録音を主軸とした楽曲と、シンセやピアノ主体のメロディアスな楽曲をほぼ交互に配置する構成が取られており、緩やかに引いて寄せる波のようなアンビエンスに包まれた、弦を直接ハンマーで叩いているようなM2のピアノや、M9のストリングスを乱打しているかのような音色からは、楽器を日常的な物として再定義しようとするような素振りが聴き取れる。

フィールド・レコーディングによるマテリアルも多様で、M5ではそのタイトル通り枯木の上を歩き廻る音がエディットされているが、そこに人の気配や物語性は希薄で、まるで電子的に生成されたノイズと見紛うような即物的な響きがあり、物音/環境音を従来の社会的・文化的文脈から剥離し、音に還元させる試みが本作のテーマの一つであるのだろう。
(それは当然、文字通り「再生」した坂本龍一の知覚世界を反映したものでもある。)
Bernardo BertolucciやCarsten Nicolai等の親しい間柄の人間によるスポークンワードがレイヤーされるM8では、意味性を希薄化する為に様々な言語を混在させているが、ここに日本語が存在しないのは矢張り坂本龍一にとってそれが特別な言語である事を意味しているのだろうか。
(しかし人声というのは実に厄介で、この曲ばかりにはどうしてもポリティカルなイメージが付き纏う。)

M10の複雑な含蓄を有したベルの音には、次第に自分が何の音を聴いているのかを見失う(まるで聴覚のゲシュタルト崩壊の) ような感覚があり、音そのものの面白さと、坂本龍一のソングライティングやメロディが持つポップな側面とが適度なバランスで共存している。
一方で音量は慎ましく鮮烈さにこそ欠けるが、不穏で時に暴力的でインダストリアルな感覚さえある電子ノイズにも充分な存在感があり、アルバム全体としても一つの楽曲の内にも、聖(メロディ)と俗(ノイズや具体音)が入り混じった内容は、新しい世代のアンビエント/ドローン(特にTim Hecker等)のリスナーに対しても訴求力がありそうだ。
但し俗とは言っても、Daniel Lopatinのような過激さや諧謔性を伴わないところに教授の人柄が滲み出るようでもある。