Amaarae / Fountain Baby

例えばドラムンベースや、もしかするとダブステップやトラップもそうかも知れないが、ある音楽のスタイルそれ自体にある種の発明のような革新性や強度がある場合には、それを採用、或いは援用しているというだけでも一定の期間は何となく楽しめてしまうという事が確かにあって、それが要するにポップ・ミュージックに於ける賞味期限みたいなものなのだろうと思う。
翻って以前から点在していた音色やリズムを採り入れて単に名前を付しただけのトレンドには、スタイルとしての強度が無い分、個々の作品に何かしらのプラス・アルファの要素が無いと辛いというのはあって、アフロ・ビーツ/アフロ・スウィングは正にその好例のように思える。

個人的にJ Husは駄目で、Janelle Monáe「The Age Of Pleasure」はそれなりに受け入れられたのは、勿論Janelle Monáeの場合のアフロ・ビーツが一部分的な援用でしかないというのもあるが、後者には歌唱の魅力やフックのあるメロディやストーリーテリングといった、サウンドに左右されない元来のストロング・ポイントがあったのに対して、前者に関しては声色もフロウもメロディも何処を取っても好きになれなかったというのが大きい。

その点このAmaaraeには先ずそのユニークな声があるという時点で及第点を軽々と超えている。
キャンディ・ポップばりに甘くボトムの軽い、時にYaejiのようなチャイルディッシュな声とアフロ・ビーツの組み合わせが単純に面白いし、自分自身に内在するアフロ・ビーツ、もっと言うなら黒人女性シンガー自体に対する先入観が白日の下に晒されるようで、反省の念と同時に快哉を叫びたくなるような痛快さがある。

更に言えばアフロ・ビーツという形式への依存度も然程高くはなく、例えばM3等にはUKガラージ風の質感もあり、ジャンルを撹乱するようだという点ではShygirlやRosalía等と並べて語るのが適切なようにも思える。
ポップ・パンク調のM10はSZAの「SOS」や最近だとJorja Smithとも被るし、ラストのM14のロック・バラードはLil Yachtyとリンクしているような感じが無くもなく、ヴァラエティに富んでいる。