Paul McCartney / McCartney III

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ロックンロール以前のルーツ・ミュージックを伴奏にして老いに寄り添うようなBob Dylan「 Rough And Rowdy Ways」と較べると確かに若々しいとは言えるかも知れない。
とは言え老人が作った音楽だからと言って、若さだけで称賛するのは作り手に対して失礼極まりない。 
という前置きの上で敢えてドライに言うならば、カレント・ミュージックとして聴く価値のある作品だとは全く思えない。

老人の作品という面では、David Bowie「Blackstar」が個人的に一つの基準になってしまっているところがあって、Paul McCartneyDavid Bowieでは世代が一つ違うので単純比較はフェアではないかも知れないが、「Blackstar」にあったような、現在進行形の音楽に対する好奇心や、音色の面でも形式の面でも新しい事をやろうという気概は感じ取れない。

長くThe BeatlesPaul McCartneyの音楽に親しんだ人達からすると、このある種の力の抜け方が好ましく響くのも解らなくはないが、自分のような門外漢が聴いて面白いと思えるようなところは何も無い。
ジャム・セッションを大したアイデアも無く垂れ流したような冗長なM1や、自己満足としか思えないM5のブルーズ・ロックは、穿った感想であるのは承知の上で、どうも所詮セレブリティの道楽という感じがしてしまう。

チープなシンセ(多分)・ブラスがグラム・ロック風のM2、牧歌的なポップ・センスを滲ませるM3等、決して悪くない曲もあるにはあるが、不思議な程に一切の深みを感じない、もっと言えば軽薄な感じさえする歌唱はどうしても今一つ好きになれない。
その印象は音楽ドキュメンタリー系の映画で良く観る、お調子者のセレブ爺さんのイメージと見事に被る。

The Soft Pink Truth / Shall We Go On Sinning So That Grace May Increase?

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個人的に(ディープ・) ハウスがキーワードとなった2020年に、18年振りにThe Soft Pink Truthの新作を聴くというのは何とも因果な感じで、必然的にハウス・ミュージックとの距離感に先ず興味が向かったが、焚き火の破裂音のような微細なノイズや、GrouperやJulianna Barwickの如き(というのはちょっと言い過ぎだけど)ポリフォニーに、Tim Hecker張りのゴシックな残響音が被さるオープニングには、捻くれたハウス/ディスコを期待していただけに些か意外性もあった。

そこから立ち上がるエレガントなピアノやDani Sicilianoを思わせるアルトの女声、四つ打ちの金属音のビートによる物音ハウスは「Bodily Functions」までのHerbertを思わせる。
ビートが引いていくのと入れ替わりに波の音と共に始まるM1後半はテクノでない方のミニマル・ミュージックのようで、ヴィブラフォンやホーンが入るとぐっとジャズ的に変容し、やはりMatthew Herbertの作品に近い感覚を惹起する。

同時にカリンバやウィンドチャイムのような淡い高音の電子音がエスニックでトライバルなムードを醸出し、ピアノの音色も相俟って(たまたま最近久々に聴き返したからでしかないが)懐かしいMuseum Of Plateなんかを連想させ、更にそこに再度四つ打ちのキックが入ってくるとまるでChari Chariのようだ。

ハウス・ミュージックは引き続きこの名義の根幹として横たわっているものの、ディープ・ハウスを完全に茶化した2002年の初作からは随分遠く離れており、アンビエントミニマル・ミュージック的な要素はMatmosの新作だと思えば然程意外性は無いが、終始厳かなムードが横溢し、表面上は嘗ての諧謔性は聴き取れない。
Matmosでさえもシリアスにならざるを得ない時代という事か、はたまたやっぱり担がれているだけなのか。 

Weezer / OK Human

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オーケストレーションやストリングスのアレンジメントの優劣は門外漢過ぎて判断が付かないが、少なくとも「The Green Album」以降で最も自然と耳が曲を追い掛けていると言うか、率直に惹きつけられるものがあるのは確か。
例えばBrian Wilsonのような人が聴いたらどんな評価を下すのだろうか。
やはり陳腐だとこき下ろされるだけなのだろうか。
(そんな辛辣なイメージはまるで無いけれど。)

Rivers Cuomoが書くメロディ/ソングライティング自体が大きく変わったとは思えないので、やはり単調で大雑把で、有り体に言えばやっつけ仕事感が拭えないアレンジメントこそ一番のウィークポイントだったのだろう。
単に歌のメロディをなぞるのとは違う、表情豊かな菅弦楽器やピアノの音色が確かなフックになっていて飽きさせない。

Rivers Cuomo自身にこんなオーケストラのアレンジメント能力があるとは思えないので、所詮は他人の力頼みだとは思うが、もしも本作がいつも通りのロック・バンドのフォーマットで制作されていたとしたら、嘸かし詰まらない作品になっていたであろうという意味で、一切エレクトリック・ギターを入れなかったという点だけでも大英断に思える。

Weezerを聴くいうと行為は殆ど1stのあの有機的に絡み合うツイン・ギターのコンビネーションの幻影を追い求める(そして幻滅する) 事と等しいのだから尚更その思い切りは驚嘆ものだ。
加えてオペラ風のM5等のメロドラマティックな要素は、これまでで最も蝶々夫人を題材にした 「Pinkerton」との近似性も感じさせる。
(M10のイントロは即座に「Across The Sea」を連想させたりもする。)

 

Julianna Barwick / Healing Is A Miracle

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クワイアのようなM1を始めとして、やはりJulianna Barwickの声は段々と歌に近付いているように思える。
低周波のシンセ・ドローンは無視出来ない要素ではあるものの。)
本作に限って言えばEnyaと較べられるのも無理は無いようにも思え、要はエクスペリメンタルとは程遠く、けれどもそれはそれで悪い事でもない。

それでいて確かにアンビエント・ミュージックでもある、というのも既にもう10年前にJulia Holterが「Ekstasis」でやっていた事ではある。
残響が醸出するアンビエンスは、ついさっきまで人間の声だったとは思えない程、と言うのもGrouper「Grid Of Points」に感じたのと全く同じで、要する新たな発見は無いが、それでも性懲りも無く耳は驚かされる。
声と認識出来るのは音階が変化している最中のみで、発声が止み残響と化した瞬間から、微かな余韻を残しつつ、しかし急速に体温を失うかのように無機質になっていく様は、まるで死んだばかりの身体をイメージさせる。
それは声という音の持つ特殊性、即ち他の楽器では出せない特有の揺らぎに起因するものであるだろう。

ポップスに接近した印象は、Sigur RósのJónsiとの共作であるM4で最も顕著で、ある種トリップ・ホップ的、とまでは言わないまでも、明確なキックとスネアを伴ったビートやシンセ・アルペジオは限りなくポップ・ソングのフォーマットに沿ったものと言って良い。
一方でNosaj ThingとのM8はその割にビートが前面に押し出されている訳でもないのが不思議と言えば不思議だが。 

珍しくダークな曲調の低周波の電子ノイズに侵食されるようなM6は本作中最もエクスペリメンタルな印象で、総じて言えば器楽音を積極的に採り入れた印象の強かった前作に対して、本作は比較的エレクトロニクスの比重が高いアルバムだと言えるかも知れない。
(と言っても程度の違いの問題ではあるが。)

Bright Eyes / Down In The Weeds, Where The World Once Was

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少しJeff Tweedyを彷彿とさせる舌足らずなヴォーカルや、細部にまで音響に対する拘りを感じさせる点にはWilcoフォロアーな感じもあるが、イントロの冗談めかしたラグタイムはともかくとして、あからさまなカントリーやアメリカーナの引用は無い。
オーケストラルな管弦楽器やアトモスフェリックなシンセが荘厳で豪奢な印象を齎しているが、ソングライティング自体は至ってシンプルでオーセンティックで、これと言ったギミックがあるわけではない。

多くの曲で元The Mars VoltaJon TheodoreやFleaが参加しているが、彼等の技巧があからさまに前面に押し出される事もない。
(シンセが80’sAOR風のM4に於けるテクニカルなドラミングは例外だが。)
Fleet Foxesなんかと較べてもポスト/マス・ロック的な要素は皆無で、節度があるとも言えるが何処か中庸な印象は否めない。

中でも特にストレートなM13等に於ける咆哮するギターや熱の籠もったコーラスからは、しばしばこのバンドがエモに括られるのも解る気はする。
(尤もポスト・ハードコア的な要素は全く聴き取れないが。)
他にもM7に於ける壮大なストリングス等の情感溢れる感傷的なメロディは確かに好ましく、素直に胸を鷲掴みにされる。

とは言えエモに有りがちな暑苦しさは余り無く、傷付いた天使よう、かどうかは正直良く分からないけれども、酔いどれたような辿々しいヴォーカルには寧ろ味わい深さもある。
歌声に関してはPerfume GeniusやFleet Foxesみたいな無難なものよりも余程好感が持てる、というのは完全にオルタナ世代の呪いでしかないのだろうけれど。

Oneohtrix Point Never / Magic Oneohtrix Point Never

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Daniel Lopatinの原点回帰の触れ込みやラジオにインスパイアされたという前情報に違わず、ラジオのジングルを茶化したかのようなインタールードに挟まれた80’sポップス風のサウンドからは「歯医者の治療音とその場に流れるBGMのソフト・ロック」というOPN最初期のコンセプトが想起される。

インタールードや頻繁に現れる断片的なループ、ヴェイパーウェイヴ的なコラージュだけを聴く分には「Replica」のようだし、M2やM3は「R Plus Seven」や「Age Of」に収録されていてもおかしくはなく、Oneohtrix Point Neverの集大成と言ってみたい気分は確かに解る。
(但し「Returnal」のコズミッシェだけはここには無い。)

但しそれもM3でごく普通の16ビートが入るまでの話で、「Garden Of Delete」以降、ビートやDaniel Lopatin自身の歌を採り入れるようになったOPNだが、ここまで普通のポップス然としたものは初めてのように思える。
M5やM7なんて特に諧謔性たっぷりで、寧ろGames/Ford & Lopatinのそれに近い。
このある種のチープネスにはエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたThe Weekndの影響があるのかも知れない。

M8は最早邪気さえ殆ど感じられない80’sポップス/AORのようなサウンドで、本作のコンセプトに一番フィットしているように感じられる。
ゲート・リヴァーブの効いたビッグなドラム・サウンドは自分の幼少期のFMラジオの記憶にも通じるが、もしかして同世代であるDaniel Lopatinもそうだったりするのだろうか。

Jay Electronica / A Written Testimony

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Louis Farrakhanのアジテーションに広島への原爆投下を伝えるアナウンス、アルバムの随所で差し込まれる子供達の歓声(Boards Of Canada「Music Has The Right To Children」を連想させる)といった要素が、何らか通底するコンシャスなコンセプトやストーリーテリングの存在を感じさせる。

全編に渡ってJay-Zが我が物顔でラップしているのは純粋な応援のつもりだろうけれども、Jay Electronica自身の声もフロウも特徴的なところがまるで無いせいもあって、完全に主役のお株を奪ってしまっている。
念願のファースト・アルバムにも関わらず、Jay Electronicaが気の毒としか言いようがないが、悔しいかな凄みさえ感じさせるM7の圧巻のフロウを前にしては、Jay-Zを非難したい気持ちも萎んでしまう。
本人作を含めて個人的にはJay-Zのベストの出来と言って良い。

エキゾティックな上物に90年代のJ Dillaを思わせるビートが乗っかるM2、James Blakeとの共作による、ボサノヴァのリズムと相反する激しいビートに扇情的なサイレン音を組み合わせたM7等、Jay Electronica本人の手によるトラックには佳曲が多く、ラッパーとしてよりもトラック・メイカーとしての優秀性が印象に残る。

名だたる外部のプロデューサー達によるトラックも充実しており、Swizz BeatzとHit-Boyが手掛けたM3は低空飛行するサブベースと裏拍で刻まれるハットが格好良い。
The Alchemist作のドリーミーなM4、KhruangbinによるブルージーなM10では、敢えてヒップホップの心臓であるビートを控え目にして背景化させる事で稀有なリリシズムを獲得するのに成功している。
個人的にはMac Miller「Circles」と合わせて2020年のベスト・ヒップホップ・アルバム。