Jim O'Rourke / The Visitor

「3分半のポップソング」とはよく耳にする表現だが、大体2分前後〜長くても7・8分という標準的なポップミュージックにおける1曲の長さとは、一体どのようにして規定されてきたのだろうか。
恐らく商業的・機能的な要請によって規定されたものなのだろうと思うが、どのような経緯があれ現在となってはそのある種の制度に、聴き手は勿論作り手側も、何らかの形で拘わらざる得ないのは確かだろう。

「極端に長い曲」というのはその制度への反撥の表現として、また比較的簡単に美学的価値をその曲に宿す手段として、ポップミュージックのフィールドにも結構古くから存在している。
思い付く限りでもサイケデリックプログレッシヴ・ロックにおける延々と続くインプロヴィゼーションや、テクノ以降のダンスカルチャーと結び付いたロック/ポップ、例えばFishmansの「Long Season」やRovoの「Pyramid」等はその好例だろう。

これらの音楽の長さには単に標準的なポップミュージックへの反撥という以外にも、ある種の機能性が伴っているような気がする。
ドラッグカルチャーに由来する前者は陶酔感を補助する機能により長時間化したと理解する事が出来るし、後者には反復を基調としながら、クライマックスに向けて長時間を掛けて徐々にサウンドの熱量を上げていく事によって、聴き手の昂揚感を助長する機能があるだろう。

Jim O'rourkeの新作「The Visitor」もまたおよそ40分に渡る「極端に長い曲」である。
しかしここには先に挙げたような機能性は殆ど感じられない。
基調となるのはギター、ベース、ドラムにピアノ、各種ホーン等のアコースティックな音色で、明確なリズムと美しいメロディがある。
この点においては「Eureke」「Insignificance」などの系譜に連なる作品である。
とは言え複数の曲を1曲に纏めてみたというような安易さは無く、一定のムードを保ちながらもサウンド自体は刻一刻と移り変わってゆく。
インプロヴィゼーション的な要素は一切なく、反復の要素も余り感じられない。
クライマックスに向かい徐々に高揚していくような感覚とは無縁で、ただ淡々と一定の熱量で変化していく音楽。

目的の無い音楽というのは自分にとって実に魅力的なコンセプトだ。
陶酔感や昂揚感を齎す音楽が下らないという意味ではないが(むしろその種の音楽は好みではあるし)、陶酔感や昂揚感が目的化された音楽は実につまらない。

目的の無い音楽(などというものがこの世にあるとすればだが)、それは非常に映像的な音楽だという気がする。
この世界の何処かに現存するある場所を40分に渡って固定カメラで撮り続けた映像に付けられたサウンドトラック。
「The Visitor」にはそのような趣きがある。
様々な人や物事がフレームイン/アウトを繰り返し、しかし決定的なドラマは起こらない、そんな映像。
カメラを止めた後も、その場所はそこに在り続け、淡々と変化を繰り返していくのだろう。
勿論単なる場所の映像がこれ程までに美しく響く訳はなく、そこには「編集」=「ポストプロダクション」の力が厳然と横たわっているのではあるが。