Poirier / Running High

振り返ってみると00年代のポップミュージックにおいて、結局最後までダンスホールはしぶとくモードであり続けた印象がある。
海の向こうでRoots Manuvaの存在感が大きくなり、日本においてはShiro The Goodmanが逸早くダンスホールへの肩入れを表明し出した頃には未だ一部の好事家による一過性のブームという感じもあったが、その流れはバイレファンキやデジタルクンビア、ソカ
といった世界中のリディムを呑込みながら、M.I.A.とDiploによって決定的なものとなり、昨年のMajor Lazerのアルバムによって一つのピークを迎えたと言えるだろう。

それらベースカルチャーとして括られた音楽が、00年代においてエレクトロニカ/ポストロックへの反動として機能したのは確かだと思う。
それらは身体性の欠如に対し重たいビートを以て、構造上の複雑性にはシンプリシティを以て、禁欲には快楽性を、スノビズムにはナスティさを以て、欧米中心の自家中毒に対する特効薬のように作用した。

00年代に限らず例えばパンクにおいてレゲエが果たした役割を思い起こしてみると、ポップミュージックにおけるサブカルチャーからハイアートへという循環の中で、非西洋圏の音楽の取り込みはある種の浄化作用を齎してきたようなところがある。
些か乱暴ではあるが、00年代のもう一つのモードであるダブを含め、ジャマイカという土地は「ここではない何処か」という意味で、欧米中心のポップミュージックにとっての第三世界の筆頭として君臨してきた、とまで言い切ってしまうのは流石に無理があるか。

ともあれGhislain Poirierの新作も00年代のベースカルチャーの例に漏れず、かつてChocolate Industriesからリリースしていた事が不自然な程エキゾチシズムに溢れ、勿論ビートは只管に重い。
特筆すべきはそのシンプリシティで、音数は極々少なく音色や音響のヴァリエーションにも乏しい。
限られたサウンドソースのみを使用して作られたリディム集のような佇まいがあり、リズムパターンにしか興味が無いとでも言わんばかりの冗長性がある。
アルバム全体でFlying Lotusのトラック1曲分位の情報量しか無いように思えて仕方無い。

何も辞書ではないのだから、情報量が多ければ良いものでもないし、正に00年代がそうだったように、ある種の単純さが大きな魅力となる事は往々にしてある。
但し00年代が終わった現在、PoirierのシンプリシティとFlying Lotusの作り出す混沌のどちらに強く惹かれるかと言えば、迷う事無く後者である。
また時代は複雑性に向かいつつある、そんな気がする今日この頃。