Joseph Nothing / Shambhala Number Two & Three

00年代初頭の世界的なエレクトロニカの潮流の中で際立った存在感を示し得た国産レーベルと言えば、筆頭としてまずChildiscとRomzが挙げられると思う。
徹底したストイシズムでシカゴやケルンとコネクトした前者に対し、後者はスラップスティックな悪戯心やある種の偽悪性によってアメリカ西海岸と結び付いていた。
Com.Aが攻撃的なビートによってその悪意を解りやすくストレートに表現していたのに対して、Joseph Nothingの悪意は一見メロウでエレガントな上物に隠れたギミックにこそ現れていた気がする。

ところがこの新作では幾ら耳を凝らしてみてもその悪意の破片が聴こえてこない。
メロディは臆面無くセンチメンタリズムに溢れ、驚くほど素直なビートはシンフォニックな上物と合わさり、プレIDM期のブレイクビーツテクノ(特にµ-Ziq)を彷彿とさせる。
それは夢の国の裂け目から顔を覗かせるディストピアばかりを描写してきたJoseph Nothingが、まるでタイトル通り本物のユートピアを描く事を目指したかのようだ。

そんな妄想と共に聴き進めたDisk1最後のトラック…
重金属が呻き這いずるような電子ノイズ、歌声とも悲鳴とも付かないエフェクトを掛けられた女声に、一瞬微かに遠くで聴こえる物悲しいメロディが薄気味悪さを助長する。
それまでとは一変した不穏なサウンドにふとトラックリストに目をやると「The Entrance」…戦慄が走った。

Disk1の最後に待ち構えていたおぞましい「入口」は、先に拡がるディストピアを予期(期待)させるに充分な仕掛けではある。
しかし曰く付きの廃墟でのフィールドレコーディングされた素材を構成されたDisk2では、「幽霊の声を入れたかった」という充分過ぎるほど不穏なコンセプトにも関わらず、こちらの想像を軽く往なすように意外なほど無機質な世界が拡がっていた。

ここにはJoseph Nothingサウンドを特徴付けてきたメロディは殆ど登場しない。
整然と構成された物音テクノはMatthew HerbertのRadio Boyを思い起こさせる部分もあるが、それほどファニーでもなくダンサブルですらない。
廃墟で録音された音を使うという制限だけに音色は些か単調ではあるが、その展開、音の抽出や加工等の全てにおいてループ主体のDisk1を凌ぐ労力、集中力を掛けて制作された事が良く解る。

それほどの情熱を注ぎ創り上げられたこの無機質な音世界こそがJoseph Nothingのイメージするディストピアの全貌なのか。
それとも「無=ナッシング」こそが実は桃源郷だとでも言うのだろうか。

そんな勝手な妄想はさて置き、エレクトロニカの担い手達が、強弱の差こそあれど、身体性や感情といった「人間性」に回帰していくように見える中、全く真逆のベクトルを選択しつつ、自らの作家性から逸脱してゆくその捻くれた天の邪鬼的志向はやはり魅力的ではある。