Boxcutter / The Dissolve

本作を聴いた後、過去のBoxcutterの音楽がどんな風だったか思い出せなくなり、2008年のPlanet-Muのコンピレーションを聴いたら、意外にもダブステップらしいダブステップで少し吃驚した。
とは言え当時、確かにそのサウンドは異端だった筈で、それから3年後の現在、ポスト・ダブステップを追い風にしてBarry Lynnは更に輪を掛けて遣りたい放題やっている。

この作品にはダブステップという言葉が無ければ一つのシーンとして括られる事も、また一枚のアルバムにコンパイルされる事も無かったであろうトラックの数々が収められている。
Planet-MuよりもむしろNinja Tuneの方が相応しそうなエレクトロニック・ジャズ・ファンクに始まり、ディスコ、ダンスホール/グライムにR&B、ウォンキーやIDM、更にジュークと、幾ら多様性・雑食性がポスト・ダブステップの特徴だとしても、そのスタイルのとっ散らかり様は些か分裂症気味ですらある。
(「ビューン」とか「シャー」とかいう若干耳触りなSEやノイズに辛うじてBoxcutterのタグがぶら下がってはいるものの。)

しかし無節操をポジティヴに言い換えれば自由になる。
パラドキシカルな言い方ではあるが、ダブステップというジャンルがテクノ以降のエレクトロニック・ミュージックのシーンに厳然と存在してきた微細なスタイルの差異によるサブジャンル化というセクショナリズムから作り手を解放した結果として、この現状があるのだと考える事も出来るのではないか。

ジャンルがジャンルとして成立するにはアイデンティティとなる特徴が必要だが、オリジナル・ダブステップの場合のそれは重低音のベースとダブ処理によって規定されていた一方で、リズム上の制約と言えば非四つ打ちという極々緩やかなものでしかなかった。
リズムの自由度の高さとシンプリシティが生む構造上のスペースは文字通り多様な作り手たちに余白=キャンバスを提供した。
2562やMartynやScubaらはそこにデトロイトやベルリンのテクノの要素を注入し、JokerはGファンクを持ち込み、そしてBoxcutterは恐らく初めてIDMの要素を投げ込んだ。
その内、誰ともなく緩やかなルールさえも無視し始め、低く重たいベースは最早絶対的な要素では無くなり、Joy Orbisonを始めとする連中はあろう事かタブーだった四つ打ちさえ鳴らし始めた。
その結果、それらの音楽を括る共通的な要素は雲散霧消し、多様で取留めの無い「ポスト・ダブステップ」の荒野が拡がった、というところだろうか。

本作を聴いていると本当にポスト・ダブステップの実体の無さを実感すると同時に、この節操や拠所の無さこそがその本質であるようにも思えてきて、この至極あやふやなシーンと言うか、状況を最も体現する存在としてBoxcutterを再発見するような感覚すらある。