Jamie Lidell / Compass

前作のストレートなブルー・アイド・ソウルは随分愛聴したが、Jamie Lidellのテクノ・アーティストとしてのキャリアやWarp Recordsの先鋭的なイメージからの乖離が齎す意外性がその理由の一部だった事は確かで、それが永続的なシフトチェンジでない事もある程度は予想が付いた。
だから本作の前情報として「エレクトロニクス」や「実験性」といった単語が聞こえて来た際には、些か安心感を覚えもした。

ところが蓋を開けてみるとこれが全くテクノへの揺り戻しを感じさせる作品などではなくて、確かにブレイクビーツの多用は認められるが、それにしてもヒューマン・ビートボックスのように肉感的(と言うか本当にヒューマン・ビートボックスだと思う)だし、エレクトロニックな音色は殆ど目立たない。
ここに居るのは相変わらずシンガー・ソングライターとしてのJamie Lidellであり、かつてCristian Vogelと活動を共にしていた頃の面影は限り無く薄い。

エレクトロニクス云々を抜きすれば挑戦的な変化は確かにある。
楽天的この上無かった曲調は何処か憂いを帯びてブルージーになり、例えればJackson 5からMarvin Gayeへくらいの振れ幅を感じた。
オーセンティックそのものだったプロダクションはやたらと音色が多彩で断片的になり、以前のJamie Lidellに近いエディット感覚がある。

特徴的なのはポスト・プロダクションで、音の質感はやけに生々しく、極端なミキシングからはThe Flaming Lipsの近作との類似を感じた。
但しこの作品に「Embryonic」程の強烈な違和感やフリークネスは無い。
この作品に仕掛けられたギミックは適度でバランスが良く洗練されていて、正にそれが故に今一つ引っ掛かりに欠ける。

この憎たらしい程のセンスの良さは間違い無くBeckのものだろう。
確かにこの作品には「Modern Guilt」と共通した感覚があり、それは結局ポップネスに回収されるアヴァンギャルディズムとでも言えそうなものだ。

「Odeley」以降のBeckサウンドは一貫してソフィスティケイトされていった印象があるが、その過程で「Mellow Gold」においてローファイなフォークと
ヒップホップを歪に繋いでいたノイズ(や悪趣味なジャケット)に表象される異物感は見事に捨象されてしまった。

当時自分は何故だかBeck暴力温泉芸者=中原昌也を同類と捉えていたが、今となってはその差は天と地ほど遠い。
洗練を身に纏い続けるBeckと名義は変わったが相も変わらず異物感を垂れ流し続ける中原昌也、どちらが信頼に値するかは、敢えて書きたくもない。