山本 精一 / Playground

この作品の持つシンプリシティはPhewとのジョイントアルバムや羅針盤の1stを想起させる。
初めて「らご」を聴いた際は、その余りに真っ当なポップスと、あのBoredomsのギタリストというイメージとが噛み合わず、ある種の悪意やユーモアの表象なのではないかと邪推すらしたが、その後作品を重ねる毎に、羅針盤サウンドサイケデリックな音響を強調するようになり、いつしか自然と山本精一に対する分裂したイメージは雲散霧消していった。
(2008年のフジロック渋さ知らズ不破大輔らと共に出演したザ・トリオ De フォークジャンボリーのステージで、漸く山本精一の表現の根幹に極々真っ当な「歌」がある事を理解するに至ったが、それは未だ後の話。)

本作の冒頭を飾るフィードバック・ギターに関して、山本精一My Bloody Valentineの参照を公言しているが、松村正人の定義を借りてサイケデリアを、「鳴っていない音が聴こえる」ような感覚だと仮定するならば、この作品に「Loveless」のようなサイケデリアは皆無である。
それどころかこのアルバムの音にはむしろ「今ここ」で鳴っているような現実感がある。
ギターが掻き鳴らされ爪弾かれる光景がはっきりと喚起されるし、キックの振動すら手に取るように聴く事が出来る。

但し特に7曲目のギターの単音の不定形なアンサンブルと慎ましい残響処理が齎す微睡むような感覚を表す言葉を、自分は「サイケデリック」と言う他に思い付けない。
そこには確かに「鳴っている音のみによって齎されるサイケデリア」というような感覚があり、それは即ち昨今のネオ・サイケデリアにおけるエフェクト依存に対する批評としても聴けなくはない。
尤もまさか山本精一がそんな標榜をする訳も無く、単なる偶然に違いないのではあるが。