Moses Boyd / Dark Matter

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M1はグライム/ダブステップ以降のUKベースのビートとジャズの融合と聞いて想像する通りのサウンドで、少し気恥ずかしさを覚えなくもない。
ビートは何処までが人力で何処からが打ち込みなのか判別が付かず、流石は気鋭のドラマーと思うものの、M8の些かストレート過ぎる2ステップ等、正直ビートが却って蛇足に感じる瞬間も無いではない。

ジャズとエレクトロニック・ダンス・ミュージックの関係性という点で、ジャングル/ドラムンベースを触媒にした20年前のウエスト・ロンドンの再来のようでもあり、女声ヴォーカルをフィーチャーしたM5等は正にブロークン・ビーツ風だ。 
個人的にこの曲や、M3のポリリズミックなアフロビート/ジャズ・ファンクくらい、軸足がはっきりとしている方が素直に楽しめる。

Gilles Petersonの関与を含め、嘗てのウエスト・ロンドンと現代のサウス・ロンドンには確かな連続性が感じられるが、Dego/4Heroにしろ、或いはCarl CreigのInnerzone Orchestraにしろ、クラブ/エレクトロニック・ミュージック側からのジャズへのアプローチがジャズのリスナーにまともに取り扱われてこなかったのと同様に、サウス・ロンドンもまたジャズ・リスナーの一部(つまりは正統なジャズ・シーン)からはハイプと見做されているような印象がある。

しかし少なくとも本作では、ObongjayarのヴォイスがGil Scott-Heronを彷彿とさせるM6や、アシッド・フォークにトラップを模したハイハットを付け足したようなM10を別にすれば、各楽器のソロにフォーカスを当てた、要するにオーセンティックなジャズらしい演奏が多々聴かれる。
その立脚点の曖昧さこそ、サウス・ロンドンのシーンが今一つジャズの側でも、クラブ・ミュージック(久々に使った、死語か?)側でもブレイク仕切れない理由の一つであるように思える。
勿論、別にそれで作品の価値が左右される訳では全くないし、余計なお世話でしかないのだが。