Little Tempo / 太陽の花嫁

東京に住んでいると、あのバンドのあの人は何処其処でバイトしているらしい、とか言った話は至る所で耳にするが、世界有数の規模のポップ・ミュージックのマーケットを有するこの国に於いてさえ音楽のみを生業として生活する事が如何に稀有で特権的な行為であるかが身に染みて良く解る。
それは長らくこの国の人々が持つ大衆迎合的と言うか、右向け右的な性質が齎す富の集中の裏面だったのだと思うが、全世界的に音楽がビジネスとして成立し辛くなっている昨今では、英米のインディ・ミュージックに於いてさえ今後益々加速してゆくであろう状況を先取りしていたのだとも思う。

音楽を制作する事により代価を得る生活が困難になった社会では、それが労働として成立しない以上、作り手にとっても当然音楽は余暇の一部となる。
大成を夢見て日夜苦痛な労働に励み、稼いだ金銭を注ぎ込んで週末に音楽制作に勤しむという人も勿論相変わらず大勢居るのだろうが、一方で春には花見をし、夏には海に秋には山に行き、たまに子供を産んで、そして毎日酒を飲む、というような日々の営みの一部として、またそれらと全く等価に音楽を鳴らすという在り方だって可能な筈で、Little Tempoの音楽は正にそのような場所から発せられているように感じられる。

この音楽には如何なる野心も邪心もエゴも無く、幾つかの曲で使用されているドラムマシンによるビートの今更な感じはやや意外ではあるけれど、それにしたって特別な戦略性を感じる訳ではなく、逆に単なる思い付きを即実行にし得るだけの健全な軽さと余裕が伝わってくる。

これは(それこそWashed Outではないが)人生を余暇として過ごす事を覚悟した大人の音楽だが、大人という言葉から連想するオーセンティックさばかりを強調する音楽とも違っている。
ルーツレゲエやダブの他にも、アフロ・キューバンやマンボ等のブラジルも旅するその音楽は、ジャマイカへの憧憬のみに下支えされたものではまるでなく、スティールパンが奏でる主旋律からは単なる異国情緒とは別の、日本/東京という場所の土着性が滲み出している。

既にMGMTやWashed Outのように、モラトリアムの副産物としての音楽が巷を賑す状況は00年代以降特に顕著となってきた印象があるが、Little Tempoのように性根を据えて日常から発せられる音楽が今後増えていくような予感もあり、それは心地好いものには違いないけれども、肥大化したエゴが産む珍奇な音楽もまた捨て難いのも確かで…。