Laurel Halo / Chance Of Rain

一聴する限りではそれこそ90'sの再生産を思わせるような極めて機能的なテクノのようにも聴こえるが、ヘッドフォンを通せばそこ彼処に聴覚を撹乱する仕掛が仕込まれている事が解る。
サーフィス・ノイズと狂ったエレクトリック・ピアノによるイントロに続くM2こそ、ストイック且つ硬質でポリリズミックなビートがAutechreを想起させたりもするが、M3に於いて背景からにじり寄ってくるようなアトモスフェリックなシンセ音に平衡感覚を奪われるような恐怖感を覚える。
他にもハイハットに焦点を当てた瞬間に視界が歪むようなトラックや、M8の拍子をスライドさせるベースライン、一定の位相に定まらないアブストラクトなシーケンス等、それらのトラップが齎すドラッギーな音響体験はShackletonにもActressにも通じるようだ。

テクノのクリシェと相反する要素を調和する事なく互いの文脈を無視して併存させている点が特徴的で、音と音の関係性を脱構築するようなコンポジションクリシェの用い方はDaniel Lopatinに似た感性も窺わせる。
尤もLaurel Haloの方がより音(響)に対するフェティシズムを強く感じさせ、目まぐるしくユニークな音響が互いの文脈を度外視して入れ替わり立ち替わり遷移していく様は非常にエキサイティングで、聴く側の集中力は全く途切れる事がない。

同じ大学というだけで引き合いに出される事の多いJulia Holterのポップへの振り切れ具合とは実に対照的な才能の発露の仕方で、Julia Holterが近作に於いて多様な器楽音を用いて喧しい街を表情豊かにストーリーテリングしたのに対して、意味深なジャケットでありながら、Laurel Haloはテクノ・ミュージックの意匠を用いながら純粋に音と戯れる事に徹していて、そのサウンドは何らの具体的なイメージも喚起させる事はない。

本作で声すら捨象したLaurel Haloの音楽は、最早可憐だとか優雅だとかキュートとだとかいった女性の作る音楽に付き纏いがちな形容詞と無縁どころか、ジェンダーアジェンダとして設定する事さえ無効化するようだ。
ここまで作り手が女性である事を意識させない音楽というのは、エレクトロニック・ミュージックの歴史に於いても、才能ある女性プロデューサーが百花繚乱する現在に於いても他に例が見当たらず、AcressやDean Bluntが黒人であるという事実と同質の興奮を覚える。
女性の音楽だとか黒人音楽だとかいった公式が急速に崩壊しつつある事を強く実感する今日この頃である。