Solange / A Seat At The Table

2016年は結局最後までBeyoncéの年だった。
「Lemonade」という、ある黒人女性の苦悩と救済、そして続いていく日常の物語の後での、双子の妊娠と大きなお腹を抱えての神々しいまでのグラミーでのパフォーマンス、それでもまた訪れる黒人女性が故の失意とAdeleのスピーチに呼応して見せた涙。
何もかもが余りにも出来過ぎていて、何処までがフィクションだか解らなくなるほど、2016年のBeyoncéの存在は完璧なエンターテインメントだった。
その勢いに乗せられて、ついその妹の作品にまで手を出してしまった訳だが、これが姉に勝るとも劣らない珠玉というのは何という姉妹だろうか。

ビブラート等の発声は姉に良く似ているが、エレベーターの中でJay-Zを殴打する映像のイメージとは違って、より線が細く透明感があり、実際には余りシンセの比重は高くないにも関わらず、全編を通じてアンビエンスが漂っている。
M7やM14等、バウンシーでアタックの強いヒップホップのビートもあるにはあるが、展開はミニマムで生楽器によるオーガニックな質感が基調を成しており、トラップ調のビートやオルタナR&B的シンセ等のトレンドを適度に取り込んでいた「Remonade」とは対照的でさえある。
スタイルやエモーションの振れ幅、ストーリーテリングに於いては「Remonade」に分があるが、1曲の強度や佳曲の密度の面ではもしかするそれ以上かも知れない。

The Roots「How I Get Over」を彷彿とさせる冒頭は、やはりQuestloveのプロデュースによるもので、「Remonade」のキーマンがDiploとJames Blakeであったのと同様に、Questlove人脈だと思われるDavid LongstrethとDave Sitekという2人の白人/インディ・ロック界の才人がアルバムを通じて重要な役割を果たしている。
(そう言えば「How I Get Over」のイントロのコーラスがAmber CoffmanとAngel Deradoorianによるものだったというのは何と言う因果だろうか。)

Questloveに加えて、Q-TipRaphael Saadiq等の名前はネオ・ソウル・リヴァイヴァルを確か実感させるが、例えば正にDirty Projectors的なポリフォニーにLil Wayneのルーディなラップが絡むM6等に於ける、インディ・ロックとUSヒップホップ、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドの交錯は、ブラック・オリエンテッドだった当時のシーンでは見ることの出来なかったもので、BeyoncéやFrank Oceanと共に、勢いを増す排他主義に呼応するかのような、人種や地域、メジャー/インディを超えた交配/クロスオーバーの実践の場としての2016年のメインストリームのR&Bの面白さを象徴する一枚だと言えるだろう。