Phew / Five Finger Discount

Michael Stipeは過去に自らの声について、「誰をも感傷的にさせる事が出来る」が故に「安易な歌を歌ってはならない」のだというような内容の事を語ったらしい。
何とも彼らしい若干ヒロイックな発言だが、それは同時に声という楽器の持つ喚起力や感情への訴求力について物語ってもいる。

音楽において聴取者の感情を左右する最強の要素は間違い無くメロディだが、全く同じ旋律でも、例えばピアノが奏でるのとサインウェイヴが奏でるのとではその作用は少なからず違ってくるだろう。
テルミンの単音が恐怖心と結び付くのはその音が古いスリラー映画に多用された事による刷り込みの結果だが、同様に音にはそれぞれ社会性があり、声がその中でも特に個人の記憶を喚起する能力において突出しているのは極々自然な事だろうと思う。

Phewの声を聴くと自分は酷く不安で恐ろしい気分に陥る。
山本精一とのアルバムにおいてリフレインされる「ウロコが生えてくる…」という声には戦慄すら覚え、本作においてその声で「夢で逢いましょう」と囁かれれば、何が何でも絶対に逢いたくないと思う。
これ程恐怖心を煽る声の持ち主はPhewの他には戸川純くらいしか思い浮かばない。
(しかし二人が揃って参加した大友良英のアルバムは良く考えると凄く怖い作品だ。)

身の周りに溢れるポップソングの殆どは可愛らしい声で可愛らしい曲を歌い、男臭い声で男臭い曲を歌う。
Phewは本作でその恐ろしい声でもって、誰もが知るスタンダードを全く異なる景色に染上げるが、器楽音はまるで如何なる感情にもコネクトする事を拒むように断片的で、だからこそ尚更にPhewの歌声はある種の切実さを伴って響く。
これに較べれば「Everybody Hurts」なんて実に安易な曲だ。
(だからといって勿論嫌いになれる筈が無いのだが。)

それにしてもベースアンプの音割れやシールドの接触音さえ包み隠さずにすぐ傍らで鳴っているような音像は、奇しくも本作に参加したJim O'Rourkeや山本精一の近作と同調しているようにも思われる。
意識的か無意識的かは別にして、この国を発信源とした、アメリカの若い世代による逃避的な音像に対するアンチテーゼのような表現の頻出は、もっと注目に値する事のように思えるのだが。