Julianna Barwick / Will

ループペダルで自身の声をレイヤーする手法の印象が強いJulianna Barwickだが、本作ではピアノやチェロを筆頭に、声以外の音色が多用されている。
シンセ一つ取っても、繊細にその音響を変容させながら揺蕩うものから、倍音多く含み歪んだパイプオルガンのようなシーケンスまでとその幅は広く、またドローンにしてもモダンなシンセ・ドローンから、チェロを用いたクラシカルなものまでとヴァリエーションに富んでいる。
M5やM8ではあろう事か男声コーラスまでもが登場し、宛ら声と生楽器/電子音のコラボレーション・アルバムのようで、本作もまたアンビエント/ドローンの飛躍を感じさせる作品である。

声とシンセによるレイヤーはJulia Holterの楽曲の背景音に類似しており、Julianna Barwickが彼女に与えた影響の大きさが窺える。
とは言え作品を重ねる毎にアンビエンスを背景化し、益々明瞭な歌を楽曲の中心に据えて洗練を極めていくJulia Holterと比べれば、本作のサウンドは依然アンビエントの体裁を保っているものの、周縁を揺蕩う声のレイヤーとは別に中心部で主旋律を奏でる声の存在が最早歌としか認識出来ない瞬間も多々あって、ポップスに大きく一歩踏み出した印象も確かにある。

但しそれは「楽器による伴奏」と「声による歌」といった単純な図式ではなく、声とその他の音の力学が不定で、曲によって、或いはその瞬間瞬間でその主従関係が逆転するような複雑性がある。
それは生楽器やエレクトロニクスと声の関係に於いてのみならず、声と声との関係に於いても言える事で、レイヤーを構成する声の集積から、その一部の位相や音量、エコーレベルを少しずらすだけで歌として聴こえるという事実は必然的に「どこからが歌で、どこからが声なのか」という問いを生じさせる意味で、まるでJulia Holterが豪奢で洗練されたアレンジメントで覆い隠していたものを白日の下に晒すようでもある。

M8では再び男声コーラスを伴って、徐々に声という「音」から、微かではあるが明瞭で高らかな歌が立ち上がり、更にM9では明確なベースラインによるコード進行とごく微小な音量ながらドラムによるビートまでが導入される。
それは宛ら「サウンド」から「ミュージック」が生まれる瞬間に立ち会うような聴取体験で、密かな興奮を禁じえない。