Planet-Mu / Bangs & Works Vol.1 A Chicago Footwork Compilation

もう何処で耳にしたのかも忘れてしまった(山本精一の著書だと思って読み返したが勘違いだった…)が、この世界の何処かにマイナーコードが楽しく聴こえる部族が居るという話を聞いた記憶があって、それを思い出す度に何だか勇気付けられる思いがする。
真偽の程はさて置いて、その話は人間が先天的に有しているかのように錯覚しがちな「感性」という神話が如何に嘘っぱちかを教えてくれる。

深夜のテレビ番組で良く見掛ける中高生アマチュアバンドの音楽の殆どが吐気がする程詰まらないのは、彼等がその極少ない聴衆経験によって形成された自らの感性という名の慣性、若しくは惰性を疑う事を知らないからだ。
余程の変人でもない限り自らの感性を否定してみるところからしか新しい音楽は生まれない。
その意味で殆どの優れて革新的なポップ・ミュージックは多かれ少なかれ戦略的でコンセプチュアルである。

一部ではダブステップの次のムーブメントと囁かれるジュークには、確かに3拍目で打たれるスネアや(比較的控え目ではあるが)深く沈み込んだ位相でうねるベースライン、簡素でチープな上モノ等の共通性はあるものの、BPM160以上という尋常でない速さやタムのように軽いキック等の要素によって、狭義のダンス・ミュージックからは遠く乖離した印象を受ける
と言うか少なくともこの音楽で踊れる気は全くしない。
ハウス/テクノ以降の文脈でこれ程踊れないエレクトロニック・ミュージックが取り沙汰されるのはブレイクコア以来の事に思え、そう考えるとこのサウンドがMike Paradinasの琴線に触れた事にも納得がいく。

ジュークはシカゴのダンスカルチャーであるフットワークのバックトラックとして発生したそうだが、ここでの「ダンス」はクラブや野外パーティでのそれではなくある種の競技としてのダンスであり、その役割はこの新興のエレクトロニック・ミュージックの特徴−2〜3分という短い時間と、まるで電源が落ちたかのようにあっさりと訪れるエンディング−を規定してもいる。
それらに加えて、暗黙のルールであるかのように各トラックに共通した極々短いヴォイス・サンプルの執拗なループがこのサウンドを底知れず異様なものにしている。

その限られた文化/共同体でのみ機能するダンス・ミュージックが、外部の人間にとっては全く以て珍妙に聴こえるという事実は、初期のヒップホップが「音楽ではない」と揶揄されたのと全く同様に、限定的な機能性の要請が時に奇人でも変人でもなく、取り立てて野心的でもない人々によって新奇な音楽が生み出される可能性を指し示す。

そんな風に音楽の革新性と機能性、或いは感性という名の社会性との関連に思い巡らせていると、決まっていつも最後には冒頭の部族の話に思いは至る。
出来る事ならいつか彼等の作った鎮魂歌か何かを聴いてみたい。
それはきっと頗る奇妙で楽しい音楽に違い無い。