The XX / Coexist

逸早くベース・ミュージックを採り入れたロック・バンドとして評価を得たThe XXは、本作でシンプルなイーヴン・キックのビートを採用してハウスにアプローチする事で、早くもそのパブリック・イメージからの緩やかな逸脱を標榜しているように思える。

メロウネスや柔和なフィーリングのフィメール・ヴォーカルや生音の質感には、高校の先輩だというFour Tetの近年のサウンドに近い感触がある。
勿論同じく高校の先輩であるBurial(それにしても凄い学校)の影響下にあるエコーの効いたゴーストリーな音像やメランコリーは相変わらずで、全体的な印象として抜本的な変化は無いものの、立体的な空間処理やシンプルで丁寧な音響処理やビート・プロダクションは、Jamie XXのトラック・メイカーとしての技術の高さを窺わせる。

バンド演奏とエレクトロニックな要素をこれ見よがしなところ無く有機的に融合させるセンスに感心しながら本作を聴いていて、思い出したのは何故かThe Stone Rosesの事だった。
サウンドに何か共通項を見出したというような事では全くなく、むしろ自分が考えていたのはインディ・ロックとダンス/レイヴ・カルチャーの接合に於ける一つの契機としてのThe Stone Rosesと、そこから20余年を経た現代で鳴るこのサウンドとの間にある隔たりについてで、その間には勿論RadioheadAnimal CollectiveによるIDMエレクトロニカの吸収があったり、LCD SoundsystemHot Chipなんかによる享楽性への揺り戻しがあったりしたが、ダンスを肯定しながらもスマイリーの凡そ相応しくないサウンドを奏でる若者達の登場は、嘗ての希望がすっかり消え失せて、絶望の表象に変わり果てた証左のようにも思え、そう考えるとBurialやHyperdubが蒔いたディストピックなヴィジョンの種は想像以上に大きかったのかとも。

そして常に一歩先を行くエレクトロニック・ダンス・ミュージックではShackletonやDemdike StareとAndy Stottのインダストリアル・ミニマルによるホラー化が推進され、スマイリーの顔は愁いを帯びるどころか最早血塗れ。