2009年にKevin MartinがKing Midas Soundの1stをドロップした頃、当時は未だトレンドセッターだったDiploが、「次はトリップホップがリヴァイヴァルする」という旨の発言をした事があったが、それから10年が経った現在、その予言は見事に的中したと言って良いと思う。
その最たる例がFKA Twigsであり、またその存在を当時のBjörk、或いはPortisheadと重ねるのに然程無理は無いだろう。
同じコード進行を繰り返すピアノの音色が、次第に倍音を吸収して増幅するように推移するM1はなかなかに壮絶で、如何にもポストBjörkという印象を受ける。
M5も何処か「All Is Full Of Love」(シングル・ヴァージョンの方) みたいだ。
直近2作にArcaが関わった事で、寧ろBjörkの方からFKA Twigsに接近していると言えるのかも知れないが、何れにしても(M2の中盤のインダストリアルなビート等を聴くと不自然に感じる程だが)本作のクレジットにArcaの名前は登場しない。
代わりに本作のディレクションに最も重要な役割を果たしているのがNicolas Jaarで、確かにM1の音響は情報過多なArcaのそれよりもっと細やかだ。
けれどもBjörk + Arcaの「Utopia」のある種の難解さと比較すると、本作の方が遥かにポップで、特にメロディだけで言えばM3やM7等は普通のポップス、と言うかややチージーですらある。
どの曲もピアノと歌だけでも成立しそうという点で、ポップ・ソングのフォーマットを逸脱するものではなく、恐らくFKA Twigsの歌が先にあり、それを肉付けしてゆく形で各トラックが構築されたのではないかと想像する。
それはOPNとHudson Mohawkeがトラックを担当したAnohniと同質の感覚を惹起し、つまりはトラックが歌に従属する事で、どれだけ音響が細やかで音色が刺激的であろうと予定調和を感じてしまう。
唯一の例外がOPNによるアンビエント調のM8というのは、Daniel Lopatinの成熟を物語ってもいるようだ。
Futureを招聘してトラップを援用したM4や、喰わず嫌いには違いないがSkrillex(乱暴な括りだが、Kelsey Luと言いこの人のオルタナR&B人脈は一体何なのだろうか?)の名前から、セルアウトという言葉すら一瞬頭を掠める。
しかしそれでも本作を凡作と切り捨てるのを思い留まらせるのは、意外にもその歌唱の魅力に依るところが大きく、変幻自在のファルセットやヴィブラートから、M6のナスティなラップ風、 更には雅楽をモチーフにしたようなM4に於ける民謡張りの小節に至るまで、その類稀な表現力はまた幾多のモダン・トリップホップのディーヴァ達の中にあって、その存在を突出させている要素でもあるだろう。